2018年2月18日日曜日

おお、作家のお嬢さん

マリー・モディアノ『哀れな歌』
Marie Modiano "Pauvre Chanson"

 作自演歌手としてもう5枚目のアルバムなんですが、初めてのフランス語アルバムです(それまでは英語)。歳のことで恐縮ですがこの秋(2018年9月)に40歳になられます。ノーベル文学賞作家のお嬢さんで、シンガーソングライターを本業にしていると自称していますが、詩集2編、小説1編を天下のガリマール書店から発表しています。誰から見ても「親の七光り」ですが、それでいいんじゃないでしょうか。今度の新アルバムにも、「パトリック・モディアノ作詞」が1曲含まれてますし。
 2006年のファーストアルバム『私はバラじゃない(I'm not a rose)』(これ当時カルラ・ブルーニなどで景気の良かったNAIVEから出た。同じ頃のリリースで、同社から米作家ポール・オースターの娘ソフィー・オースターのデビューアルバムもあった)の前年に、マリー・モディアノはスウェーデン出身(フランス在)のミュージシャン、ピーター・ヴォン・ポエル(読み方はこれが正しいとは思わないが、フランスではこう呼ばれている)と出会っている。このピーターはベルトラン・ビュルガラのA.S. ドラゴンのギタリストだった人で、同バンドでミッシェル・ウーエルベックをサポートしたことがあります(あ、これはこの記事を文学の方向に引っ張ろうとする私の無意識の行動です。忘れて)。このスエドワ君がリー・モディアノの公私共のパートナーとなり、マリーのアルバムの作編曲プロデュースをしながら、マリーの一児のパパになり、音楽レコード業界が不振となると自分でレーベルNEST & SOUNDを設立して、2013年からはこのレーベルからマリーとピーターの作品を発表しています。
 ピーター・ヴォン・ポエルだから、ということなんでしょうが、マリー・モディアノのアルバムのサウンドはヴェルサイユ系に近いものを感じさせますし、ビュルガラやエールやシャルロット・ゲンズブールなどで聞き慣れているアトモスフィアがあり、構えなくても安心な「フレンチ・タッチ」と言えます。今回のアルバムも木管アンサンブルやエアリアルなジャズや20世紀仏クラシック(ラヴェル、サティー、ドビュッシー...)なテイストがとても心地良いわけですが...。あとは曖昧でアンニュイなマリー・モディアノのヴォーカルと「詩」がどれだけものを言うか、というのがこのアルバムの真価です。初めてのフランス語ですから。
『哀れな歌(ポーヴル・シャンソン)』 はこのCDアルバムと同時に、天下のガリマール書店から詩集としても刊行されました(だからCDには歌詞ブックレットが付いていない。別で詩集を買えという魂胆でしょう)。文学の人の娘は文学。そういう望まれた文学性なのか。
例えば、このアルバムからの初のヴィデオクリップ作品で、スウェーデンの写真家/映画作家イエンス・アスールがクリップを制作した「怒りを癒す Guérir ma colère」という佳曲があります。アルバム最初の曲です。
 Guérir ma colère 私の怒りを癒す
Avant d’aller plus loin. 遠くへ行く前に
Sourire sur cette terre, この土地で微笑み
Se taire dans un coin. 街角で黙り込み
Oublier ma peine, 私の痛みを忘れる
Je ne vous la donnerai pas. 私はそれをあなたには与えない
Je dépose les armes, 私は武器を捨てる
C’est mon dernier combat. これが私の最後の闘い
Où est-il le vent lointain 野の草を揺らす
Qui berce les herbes folles ? 遠くの風はどこにある?
Où est-elle la main amie あなたにすべてを忘れさせてくれる
Qui vous fait tout oublier ? あの親しい手はどこにある?
Guérir ma colère 私の怒りを癒す
Guérir ma colère 私の怒りを癒す
Guérir ma colère… 私の怒りを癒す...

クリップはミニマル(え、たったこれだけのことなんですか?)で孤独で厳しく内省地獄で、文学性ありますよね(てか)。アンニュイなドラマですこと。

 そう、曖昧でアンニュイであることについていけなかったら、モディアノ世界には一生入り込めないわけです。これは父親のことですから、娘には何の関係もないと言っていいのですが、「モディアノ」という印をかざすからには、やっぱり聴く者/読む者はどうしても「そうでしょう」と思いたいところがある。で、3曲め、アルバムタイトル曲にして、詩集の表題でもある「哀れな歌」を聞いてみます。
Au dernier rang se ferment les paupières, 最後部の席でまぶたは閉じる
Des songes en contrechamp 夢は肩越しからの
Qu’on porte en bandoulière. 切り返しショットで
Non, je n’ai pas vu la captive ノン、私は波の中に消える
Se perdre dans les vagues, 囚われの美女を見なかった
Non, je n’ai pas vu sa silhouette ノン、私は海藻の中で踊る
Danser parmi les algues. 彼女のシルエットを見なかった
Mais le cœur a parlé, しかし心は語り
A vaincu la raison, 理性に打ち勝った
Les larmes séchées 涙を乾かし
On chante à l’unisson みんな声を一つに歌おう
Nos rêves déclinés  我らの衰弱した夢に
Pauvre chanson ! 哀れな歌を!
Les ombres qui passent 過ぎていく影は
Ne laissent pas de trace, あとを残さない
Toujours la même balade いつも同じ足取りで
Afin que le temps passe. ただ時をやり過ごすために
Mais je n’ai pas cru aux mirages しかし私は心の中に描かれた
Tracés dans mon esprit, 蜃気楼を信じはしなかった
Ces déserts, ces beaux paysages この砂漠、この美しい景色を
Que le jour a repris. 日はまた取り戻した
Mais le cœur a parlé, しかし心は語り
A vaincu la raison, 理性に打ち勝った
Les larmes séchées 涙を乾かし
On chante à l’unisson みんな声を一つに歌おう
Nos rêves déclinés  我らの衰弱した夢に
Pauvre chanson ! 哀れな歌を!
Sans un regret, 少しの悔いも無く
Je m’en vais solitaire 私は一人去っていく
Au gré des années 私が地下に放っておいた
Que j’ai laissées sous terre, 年月の流れに身をまかせ
Mais je n’ai pas dit que l’aurore me dicterait ses lois, しかし夜明けが私に決まりごとを教えてくれたりはしない
Non, je n’ai pas dit que le vent me mènerait à toi. ノン、風が私をあなたの元に連れていくことはない
Mais le cœur a parlé, しかし心は語り
A vaincu la raison, 理性に打ち勝った
Les larmes séchées 涙を乾かし
On chante à l’unisson みんな声を一つに歌おう
Nos rêves déclinés  我らの衰弱した夢に
Pauvre chanson ! 哀れな歌を!

ピアノのワンノートが8回トントントントントントントントンと。これだけで必殺のバラード曲になってしまうんです。いい曲、いい編曲じゃないですか。しかし、私の翻訳も下手ですけど、このよく分からない歌詞。このフラットな歌唱。情緒が乾いてしまいますよね。高踏ですよね。この「モディアノ」という名前がなければ、成立しないものだと私は思いますよ(悪口です)。

で、ブツブツ言いながらアルバムの最後までくると、終曲10曲めに「悲しみの黒犬(Le chien noir du chagrin)」というタイトルからしてちょっと惹かれてしまうオーラを持った歌があります。

そんなこんなの後で
きみは通りの名前を忘れてしまった
でもそいつはきみをあのバーまで連れて行ってくれる
人っ子ひとりいたためしのないバーへ

その犬はこう呼ばれていた
悲しみの黒犬
悲しみの黒犬


覚えてるかい? きみは言ってた
夢の中でそいつを見たって
そいつはいつも同じ時刻にやってきた
7時、夜の7時に

そいつはこう呼ばれていた
悲しみの黒犬
悲しみの黒犬


そいつはあのバーの前で止まるんだ
人っ子ひとりいたためしのないバーへ
すると二人の楽士が演奏するんだ
くだらない曲をね、くだらない曲さ

きみは中に入っていく、すると私がいるんだ
隅っこのテーブルで、きみを待っている

ずっと前から
このバーには人っ子人りいたためしがない

1匹の犬を除いてはね、そいつはこう呼ばれていた
悲しみの黒犬
悲しみの黒犬

ミステリアスで不透明で一体何がここで、と不安がもくもくもくと煙ってくるじゃないですか。たったこれだけの歌詞で、得体の知れない暗黒物語を視覚化できるのですよ。これ、作詞がパトリック・モディアノその人です。モディアノ印というのはこういうものなのだよ、と教示しているような。かないませんなぁ。

<<< トラックリスト  >>> 
1. GUERIR MA COLERE
2. IDEAL & BANCALE
3. PAUVRE CHANSON
4. SI LA SI RE
5. L'AMOUR A REBOURS (feat PETER VON POEHL)
6. IMPASSE DES OUBLIES
7. NOS REVES
8. ENTRE CHIEN ET LOUP
9. L'INDIANA
10. LE CHIEN NOIR DU CHAGRIN

MARIE MODIANO "PAUVRE CHANSON"
CD PVP / NEST & SOUND  PVP12CD
フランスでのリリース: 2018年2月9日

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)"ENTRE CHIEN ET LOUP" (ライヴ): マリー・モディアノ+ピーター・ヴォン・ポエル(g)




 

2018年2月15日木曜日

I saw the light

"L'Apparition"
『顕現』

2017年制作フランス映画
監督:グザヴィエ・ジャノリ
主演:ヴァンサン・ランドン、ガラテア・ベルージ
フランス公開:2018年2月14日

 画の始まりは戦争です。フランスの大手日刊紙ウェスト・フランスの特派戦場リポーターのジャック(演ヴァンサン・ランドン)は、かの戦場(特定されてませんがシリア)で相棒のカメラマンを失い、自分も耳を負傷してフランスに戻ってきます。友の死と戦場のトラウマから抜けられずに、自宅の窓を全て段ボール紙で覆い、家族とも他人とも交わることができません。そんなボロボロの状態の時に、バチカン法王庁から仕事の依頼が来ます。
 南東フランス、アルプス地方の小さな村で、当時16歳の孤児の修道女アンナ(演ガラテア・ベルージ)が山中で聖母マリアの顕現を体験し、その告白を受けた村の教会の司祭ボロディン(演パトリック・ダサンサオ)がそれを信じてアンナを聖母と交信したメッセンジャーとして奉り、その噂は急速に世界のカトリック信者に広がり、今やおびただしい数の巡礼者たちがアンナを一目見ようと世界からこの村の教会に押し寄せるようになりました。その現象の異常な拡大にカトリック本山のバチカンも黙っていられず、バチカンからの調査協力を拒み続けるボロディン(反権威主義的な田舎司祭という位置づけ)の元に正式な教理典範調査団(この「奇跡」を法王庁として認可するか否かの調査団)を送りつけます。キリスト法学者や心理学者など5人からなるバチカン調査団の一員として、ジャーナリストのジャックも依頼されたのです。「俺はこの分野とは何の関係もない」と最初は断るのですが、関係ないから客観的でジャーナリスティック(証拠がない事実は認めないというプロの視点)な方法での調査が可能であるというバチカン側の見方。つまりバチカンは常にこのような「奇跡」には懐疑的であり、ほとんどの場合否定し「異端化」するのが慣例。なぜジャックがこの仕事を受けたか、という答えはないんですが、この映画の傾向として「ミステリー解き」が大きな流れで、最初の戦争との符合というのも最後にわかるんです。なぜこれとこれが繋がるのか? ー というのにハッと気づく時、偶然ではなく必然だと思うと、そこに神の手の介在を思ったりするじゃないですか。無宗教者にとっての宗教のちょっとしたきっかけでしょうに。まあ、それはそれ。
 山の村に来てみたらびっくり。何台ものバスが外国人巡礼者たちを連れてやってきて、村の広場や「顕現」目撃現場の野にはすでにアンナが見たとされる白装束&青いベールのマリア像が建立され、周りで巡礼者たちや奇跡にすがろうとする病人や障害者たちが讃美歌を歌ったり祈りを捧げたり...。観光名所化して、お土産屋にはアンナの肖像絵ハガキ、ロウソク、マグカップ、スノーグローブなど様々な「アンナ・グッズ」が売られているのです。そういう巡礼者たちの群れを割って司祭ボロディンと今や18歳になったアンナが教会への道を進むと、ハレルヤの声、アヴェ・マリアの合唱、アンナに近づき祝福の言葉をいただこう、アンナに触れようという人たちが蟻んこのように寄ってきます。アンナはと言えば、聖女の装いではなく、見習い修道女という身分で尼僧着やヴェールをかぶることもなく、質素な灰色のスウェットパーカー+ウールのカーディガンを着ています。しかしその顔、その物腰は...。
 映画はこのガラテア・ベルージという若い女優の素晴らしさに多くを負っていると思いますよ。キリッと上がった眉、見据えたら動かない大きな目、 幼さと狂気を秘めた顔立ち、何事にも動じず全てに答えを持っているような語り方...。「私は嘘つきではない」と言う時、こちらはそれを信じるしかないではないか。調査団は心理医学の検査も行うのだが、反応は全て正常で、アンナの発言に虚偽の可能性は少ない。しかし...。
 身元不明(sous X)の新生児として収容され、施設と受け入れ家庭と転々として育ち、学校も特別な問題はないが目立たない子だった。賞罰なし。フランソワはそういうアンナの境遇上にあるはずの何か隠されたものを追っていきます。学校と施設での交友関係をしらみつぶしに一人一人当たっていく、という地味な探偵捜査活動です。
 他の調査団は目の前にある証拠品から崩していくのが手っ取り早いと、アンヌがマリア顕現の時に拾ったとされる「聖遺物」である、古い血痕のついた布切れ(これをボロディン司祭はガラスの容器に納め、聖骸布のように奉って教会の宝物にしている)を、科学分析にかけるのです。この時、バチカンからフランスの裁判所を通じて、フランスの警察が強制執行で教会に入り込み、抗議する信者たちをなぎ倒して暴力的にこの聖遺物を押収するシーンがあり、かなりショッキングです。この聖遺物を守ろうとした者たちの先頭にアンナもいたのです。聖女的な立ち振る舞いです、が...。
 科学分析の末、その聖遺物が全くの偽物であったとわかった時点で、もうこの顕現奇跡の話は全部ウソという結論で調査は終わるはずでした。少なくともフランソワを除く調査団員たちはこれ以上何もすることがないと...。
 しかし、フランソワの執拗な探索は、アンナの特殊な交友関係やある殺人事件との関わりなど複雑な要因に次々にぶち当たり、アンナが守り通そうとしている秘密に近づいていきます。一方アンナは聖母顕現の真実が危うくなることの重さ、そして守るべき最重要の秘密の重さに食事ができなくなり衰弱していきます。「俺は真実しか知りたくない」とフランソワは言います。フランソワの真実とは顕現が本当か嘘かということだけでなく、その事件に関わる全てのことの真実なのです。なぜここまで懐疑的で執拗なのかは、映画最初の戦争トラウマがおおいに原因していて、戦争によって壊された何かが取り戻せないからなのです。アンナはフランソワに言います。
Il y a trop de colère en vous pour accepter ce que j'ai vu.
あなたの中には怒りが多すぎて私が見たものを認めるわけにはいかないのです。
  フランソワもそこから抜け出そうとしているのです。アンナはその手がかりである、ということにフランソワは気づいていきます。そしてその兆しとして、この映画は(あくまでも奇跡としてではなく)フランソワに襲ってきた(戦争で傷つけられた)耳の激痛に、アンナが手をその耳に触れ、フランソワの頭部を胸に抱き寄せることによって痛みを止めてしまうのです。やはり奇跡なのかもしれません。
 アンナが最後まで隠そうとしていた、施設時代の唯一無二の親友メリエム(演アリシア・アヴァ)のことが、フランソワに突き止められそうになり、アンナによる顕現体験が偽りであったことが確定的になったとき、アンナは嵐の山中で苦しみの果てに殉教者のように命を落とします。フランソワは、ヨルダンでNGOの一員として難民支援活動をしているメリエム(結婚して一児あり)のもとに赴き、アンナの事件の顛末を報告し、そこで新しい事実を知るのです。すなわち、顕現の奇跡は本当にあり、聖女となるべき少女は本当にいたということを...。

 アンナを短時間に世界的に知らしめたのはインターネットです。21世紀が舞台ですから、こういうネット上での世界同時中継や、アンナ・グッズの販売や、イカサマにしか見えないことも映画は見せます。ハイテクを使ってアメリカやオーストラリアにまでアンナを「プロモーション」しようとする米人聖職者アントン(演アナトール・トーブマン)という奇妙な人物も登場します。「バチカンが信じなくても、世界の何百万という信者がそれを信じれば、それはキリスト教的真実になる」とアントンは言います。確かに。
 アンナを信じそうになる瞬間は、フランソワにも映画を観る者にも確実に訪れます。観る者のエモーションは、殉教者のように息絶えるアンナで最高に高鳴るはずです。たとえ真実はそこになくても。こういう映画ですから、救済がなければいけません。そういう点では、フランソワは戦争で壊された自分をやっと治癒することができる結末であり、聖なるものもこの目で見てしまうような稀有な体験者として人間界に戻るんでしょう、多分。
 アンナとメリエムの関係については、もっと映像も時間もあってもいいと思いましたし、ここが最もミスティック、という点がぼかされているのがやや不満。しかし、不器用に迷う生身無骨者をやらせたらヴァンサン・ランドンに勝てる者はないですね。すごい俳優です。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『顕現(l'Apparition)』予告編


  
 

2018年2月13日火曜日

世界の起源

(この記事は向風三郎FBタイムラインの2018年2月13日ポストの再録です)

レラマ誌今週号は、こんな感じで大きな女性器デザインの表紙で、8ページの女性器に関する特集記事、題して “Le sexe féminin est fabuleux”(信じがたきかな女性器)。信じがたいほど素晴らしいというのは漠然と知っているのだが、その実体というのはタブーが多すぎて誰にも知られないようにされてきたではないですか。これはノルウェーのまだ31歳と28歳という若い二人の女医さんニーナ・ブロシュマンとエレン・ストッケン=ダールの共著で世界的ベストセラーとなっている(33ヶ国語で翻訳されている。日本語まだですか?)”GLEDEN MED SKJDEN” (2017年1月発表。フランス語訳 “LES JOIES D’EN BAS”(=下の方の悦び)(→表紙写真)は2018年1月刊行、ちなみに英語版のタイトルは “WONDER DOWN UNDER - A USER’S GUIDE TO THE VAGINA”)のフランス発売に合わせての著者インタヴュー込みの紹介記事です。
 
フランス語版は”Tout sur le sexe féminin(女性器のすべて)という副題がついていますが、知らないことがあまりにも多すぎるのは、女性たちや医学界でも事情は同じ。有史以来綿々とこういうものらしいからこういう風に扱って、子供にこのように教えられるべき、というリクツは「男性」識者/「男性」医学者が作ってきたもの。快楽のメカニズムさえ、男がこうなんじゃないの?と考えたものでしょう。女性の性的オーガズムとは膣に陰茎が挿入されなければ得られない、という嘘が暴かれたのは20世紀後半になってからのこと。原理的に女性は受身である、という男性支配原則は何の根拠もない、ということは女性器そのものが証明しているのです。
それからヒーメンという得体の知れない「膜」(!)、一体誰があのような「出血劇」を考え出したのでしょうか? 
男の私が言うと、いろいろとアレですが、タブーを一つ一つ壊していかないと、女も男も「こんなものが性的快楽なのか」の程度で終わってしまうと思うのです。私はこの本読みますよ。女性器のこと好きですが、何も知らないのですから。
なお、この若き女医お二人、「男性器編」も準備しているそう。男性器についても、私たちは何も知らないでしょうに。

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追記(2018年2月14日)

(↓ YouTube) 者の女医さん二人ニーナ・ブロシュマンとエレン・ストッケン=ダールによる、ヒーメン神話の嘘に関するレクチャー。女性のこの部分で性交体験者/未体験者を判断できるという太古からある俗説が医学的根拠がないことを具体的に説明。フラフープにサランラップ張って、それをパンチで破るというイメージ化が笑える(これは俗説のイメージ)。俗説から解き放たれよ。未体験者であるかどうかは女性本人に聞くしかないのだが、その問いに答える・答えないは女性が決めること、という結論、喝釆ものです。


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再追記(2018年2月15日

レラマ記事ですごくいいなぁと思ったこと : 一般向けとは言えこれはぶ厚い「医学書」なので最初はそんなに部数が出るものではなかったし話題にもならなかった。最初の書評は、ノルウェー放送協会のウェブサイト上で、その中で評者ジャーナリストは「あまりの情報の多さに辟易して」「本書は読者たちからあらゆるセックスへの欲望を奪い去ってしまうだろう」という酷いものだった。この批評は即座に大変な数のノルウェー女性たちから大反撃を受けて(たぶん今日日の日本語的表現では)「炎上」してしまうのですよ。ここからこの本のブームは始まったのです。だから著者の二人は今やその火付け役となったジャーナリスト氏に感謝しているほどだ、と。余裕余裕。