2017年5月23日火曜日

ほうらアヤトラ・ホメイニ、見に見に見に来てね

マリヤム・マジディ『マルクスと人形』
Maryam Madjidi "Marx et la poupée"
Prix Goncourt du premier roman 2017

  2017年5月19日、イラン大統領選挙で現職のハッサン・ロハニが57%の得票率で再選されました。穏健派で融和路線の政策を取り諸外国のイラン経済封鎖を解いたロハニが国民の高評価を受けたということでしょうが、反米反欧・イスラム強硬派のエブラヒム・ライシを破った選挙というのは、どことなく当地のマリーヌ・ル・ペンを破ったエマニュエル・マクロンの当選と同じような、最悪よりは「まだマシ」を選んだ選挙のように見えたりします。特にイランの女性たちの今日の状況のことを考えると、まだまだ喜ぶことができないものだと思います。
 マリヤム・マジディは1980年、テヘラン(イラン)に生まれ、6歳の時に両親と共にパリに移住、大学を出てフランスのコレージュとリセのフランス語教師、さらに外国人のためのフランス語教師となって中国とトルコに数年ずつ滞在しています。現在はフランス赤十字に所属し、難民などを対象にフランス語教育に携わっています。
 この作品『マルクスと人形』はマリヤム・マジディの最初の小説であり、話者の名が「マリヤム」というほど自伝的な傾向が強いものですが、フィクションや詩や創作童話などを織り交ぜた自分史クロニクルです。始まりは妊娠中お母親のお腹の中にいるマリヤムが、反政府デモで官憲に追われ必死に逃げる母親をお腹の中から観察しています。
 イランの状況背景を説明しますと、1979年2月にイスラム革命が起こり、アヤトラ・ホメイニを最高指導者とする政教一致のイスラム(シーア派)共和国が成立しました。シャーの独裁を打倒したことによって、民主化が訪れることを期待していた革命推進派の一部は、革命後国家体制が一挙にイスラム化してしまったことに反対して反政府運動を展開しますが、悉く暴力的に弾圧されてしまいます。 マリヤムの両親はその反体制派の活動家であり、共産党員です。本書名『マルクスと人形』はこのことに由来します。両親は(いささか戯画的ですが)共産主義者だったので、子供にその思想を受け継がせようとします。その基本の基本として「私的所有権の否定」ということから始めます。具体的には自分が小さい時に遊んでいた人形を手放して隣近所の子供に差し出す、ということを両親はマリヤムに強いるのです。少女マリヤムはそれが絶対にいやなのです。小さくなって着れなくなった衣服や読んでしまった絵本を近所の貧しい子供たちに差し出す、しかし人形だけはいや。これは幼いマリヤムにとって大変な不条理ドラマだったわけです。
 反体制派への弾圧は激化し、いち早くフランスに亡命した父親を追って、1986年マリヤムと母親はパリに移住して来ます。なぜここではペルシャ語が通じないのか、なぜクロワッサンのような食べ物を食べなければいけないのか、6歳のマリヤムにはわからないことだらけですが、一番わからないのはこの「引越」がいつまで続くのか、いつイランに帰れるのか、ということです。
 6歳の少女は突然身を置くことになったフランスへの頑な拒絶反応を露にします。イスラム独裁で自由のないイランに比べれば、自由と民主主義の国フランスがどれほどいいか、という観点はないのです。食べ物、言葉、優しいおばあちゃん、マリヤムの好きなすべてのものがイランにあったのですから。パリの小学校で貝のように押し黙る日々が長く続きます。先生も級友も給食のおばさんもマリヤムのだんまりが理解できません。しかし長い長い沈黙の末、ある日突然マリヤムはフランス語を話し始めるのです。話し始めたらよどみなく言葉は出てくるのです。この子はこれほどおしゃべりだったのかと皆が驚くほど。長い間胎内にいた新生児のように急に世界に対して声を出した。まさにマリヤムにとって第二の誕生であったかのように。ここのパッセージは感動的です。
 そして少女はフランス語の魅力に取り憑かれていく。私は自分の娘がフランスの公立学校で教育を受けたので、マリヤムが受けたような「外国人」「外国系」の子弟への(決して差別ではない)ある種の特別扱いというのを知っています。私の娘も学校での自分の居場所の危うさに悩んだりしました。大人たちは「二つの文化を持てるなんてすばらしい」とか「自然にバイリンガルになれる」とか、楽観的にポジティヴな見方をしますが、フランスの教育の現場は違いますよ。完璧なフランス語習得のためには他言語が邪魔になる、日本語の学習を後回しにするように、と私は担任先生からはっきり言われましたよ。
 当然のことながらフランス語愛に浸れば浸るほど、マリヤムのペルシャ語とイラン的アイデンティティーは薄められていきます。故国にいるおばあちゃんから手紙が届いたり、電話が来たりしても、返す言葉がどんどん少なくなっていく。

Je ne suis pas un arbre.  私は木ではない。
Je n'ai pas de racines. 私には根がない。

  2003年、マリヤムは17年ぶりにテヘランの土を踏みます。イスラム法下の様々な制限や欧米の経済封鎖にもめげず、人々はしたたかに生きているし、マリヤムの一時帰国を祝うホームパーティーでは、ガラス窓を厳重にアルミホイルで目隠しして、アルコールとドラッグと禁じられた音楽でたいへんな大騒ぎになります。マリアムはそこで町一番のならず者の若者と電撃的な恋に落ちます。乱闘沙汰やオートバイ事故や投獄されての拷問や遊び半分の自殺未遂などで身体中傷だらけの若者。傷ついても傷ついてもなお不敵な顔で立っているその男に、マリヤムはおまえはイランの姿そのままだ、と。このイランをマリヤムは強烈に愛してしまい、二度とパリに帰りたくないと、人形を渡したくなかった少女と同じようにゴネるのです。
 自分から失われたイランをもう一度取り戻したい。2002年、ソルボンヌ大学の比較文学コースに進んだマリヤムは、担当教授にセルジュク朝ペルシャの詩人ウマル・ハイヤーム(1048-1131) と近代イラン文学作家サーデグ・ヘダーヤト(1903-1951)について研究したいと申し出て受け入れられ、その日からみっちりとペルシャ語を学習し直すのです。失われた母語(langue maternelle)のペルシャ語と、水林章流に言えば父語(langue paternelle)であるフランス語は、その日までマリヤムの中で敵対していたのに、ここでやっと和解ができたのです。マリヤムはフランスにやってきて長い長い沈黙の後にフランス語を初めて口にした日を「第二の誕生」と言い、ソルボンヌでペルシャ語を取り戻しフランス語とも和解できた日を「第三の誕生」と位置づけるのです。

 自分探しと言うよりは、言語が背負い込んだ文化を愛したり嫌ったり、それから愛されたり拒絶されたり、その果てに幸福な和解が得られるまでの自分史。フランスでフランス語教師となっても、心ない人から「フランス語教師というのはフランス人でなければなれないはずだろ」という声も平気で飛んで来るフランス。マリヤムはそういうフランスとも勇敢に闘っている。またマリヤムにとっては男を誘惑して楽しむということも大切な人生の一部なのです。前述のペルシャ古典詩人ウマル・ハイヤームの詩をマリヤムは男を引っ掛ける道具としても使っているのです。すなわち、一対一の食事が終わり、アルコールもほどよく回った頃に、マリヤムは気に入ったハイヤームの詩を朗読して聞かせる。ペルシャ語など何も知らぬ男もその音楽の調べのような言葉の連鎖にうっとり聞き惚れ、恍惚となってしまい、そのままマリヤムと一夜を過ごすことになる、という次第。したたかな「やり手」の女性であることが伺えるでしょう。
 政治状況もユーモアも詩的イメージも。マルジャン・サトラビのBD(2005年)とアニメ映画(2007年)『ペルセポリス』にも共通する、イラン女性の明晰なものの見方とストーリーテリングのセンスの良さに脱帽します。この女性たちは本当に強い。

 Maryam Madjidi "Marx et la poupée"
Le Nouvel Attila 刊 2017年1月、206頁 18ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)自著『マルクスと人形』を語るマリヤム・マジディ


2017年5月17日水曜日

さまよえるイスマエル

『イスマエルの幽霊たち』
"Les Fantômes d'Ismaël"

2017年フランス映画
監督:アルノー・デプレッシャン
主演:マチュー・アマルリック、マリオン・コティヤール、シャルロット・ゲンズブール、ルイ・ガレル
フランス公開:2017年5月17日
第70回カンヌ映画祭オープニング上映作品 

 I ain't afraid of no ghosts !
 ("Ghostbusters")
   ルノー・デプレッシャンの本作の主人公イスマエルは映画作家です。おそらく彼が映画監督を主人公にした最初の作品です。当然デプレッシャンのオルター・エゴと思っていいでしょう。演じるのは『そして僕は恋をする(Comment je me suis disputé  - ma vie sexsuelle)』(1996年)以来デプレッシャンの分身男優となっているマチュー・アアルリックです。 アマルリック自身映画監督として6本の作品を発表していて、この2017年カンヌ映画祭には、このデプレッシャン作品の主演俳優としてだけでなく、6本目の監督映画『バルバラ』(歌手バルバラのバイオピック)の監督としても参加しています。監督としての苦悩も身をもって知っている男。
 思えば映画というものは、ヒッチコックの例を出すまでもなく、監督の分身や幽霊をたくさん作ってしまう傾向があります。フィクションとは幽霊づくりの仕事であって、映画の時間が過ぎれば、その人物はこの世から消え去るのです。映画人はその人物たちを創っては殺しという作業を一生続けるわけですが、生の終わりにはその人物たちの亡霊に呪われるのではないでしょうか。
 映画作家イスマエル(演マチュー・アマルリック)には(実在するのか架空なのかわからない)弟のイヴァン(演ルイ・ガレル)がいて、イスマエルはその人物を使って国際スパイ映画を制作するため、日夜必死で脚本を仕上げようとしている。21年前、敬愛する映画作家であり師でもあるアンリ(演ラズロ・ザボ!ハンガリー出身映画作家)の娘カルロッタ(演マリオン・コティヤール)と結婚するが、カルロッタは結婚後まもなく忽然と姿を消してしまう。アンリとイスマエルの八方手を尽くしての捜索にも関わらず、手がかりはなく、年月は経ち、蒸発者は戸籍上死者同等の扱いになって除籍になる。その苦しみを共に味わったアンリとイスマエルはいつしか父と息子同然の関係となるが、20年経っても二人はカルロッタの「死」を受け入れることができない。そしてアンリとイスマエルは同じように悪夢につきまとわれる病癖がある。アンリの悪夢のもとはほとんどカルロッタであるが、イスマエルのそれはカルロッタだけでなく映画人的極度のストレスがある。悪夢に苛まされないためには眠らないことが一番。イスマエルはアルコールとニコチンと様々な薬物で覚醒・半覚醒を保っている。しかし一旦眠るやいなや悪夢は容赦なく襲って来る。
 2年前からイスマエルは天文学者シルヴィア(演シャルロット・ゲンズブール)と(同居することなく)交際中。海辺の別荘でシルヴィアは浜辺ヴァカンス、イスマエルは籠ってシナリオ執筆という穏やかな時間と空間の中に、20年前に蒸発したはずのカルロッタが闖入してくる。パニック。幽霊ではないのか?狂言ではないのか? 行くあても泊まるところもないカルロッタを別荘に迎え入れ、3人の奇妙な共同生活が始まる。
 なぜ蒸発したのか、どこにいたのか。父親に溺愛されたいたがゆえに不幸だった少女は、抗しがたい「沖からの呼び声」に従って無一物で旅に出て、放浪に身をまかせる。その果てにインドに辿り着き、ひとりの男と出会って家庭に入り幸せに暮らしていた。しかし3週間前に男が死に、その家を追い出されフランスに帰ってきたが、どこも行くところがなくイスマエルのもとに来た、と信じがたいストーリーを淡々と言う。そしてイスマエルという「夫」を取り戻したい、と。シンプルさと天真爛漫さと現実世界とのズレ、マリオン・コティヤールという猫目女優の不思議なパワーが大きくものを言ってます。
 なぜ今、ここなのか。20年間すべてをぶち壊しにした挙げ句に、今ここに出てくればもう一度イスマエルの「現在」もぶち壊しにしてしまう。そういう怒りを彼は元妻/不在の妻/死んだはずの妻/幽霊にぶつけますが、カルロッタは幽霊ではないのです。
 二人で海水浴をし(遊ぶ二頭のイルカのようなシーンです)、「私たちきっと似た者同士よね」とシルヴィアに語りかけるカルロッタ。この猫目の魅力にシルヴィアも一旦はカルロッタと打ち解けた関係になりかけるのですが、その魅力が強ければ強いほど、シルヴィアは「負ける」と感じ、それは黒々とした嫉妬となっていきます。かくして嫉妬は爆発し、シルヴィアはイスマエルとカルロッタを残して別荘から去って行く...。
 映画は飛んで、弟イヴァンを主人公とした国際スパイ映画の制作現場へ。フランス外務省に所属する諜報員という立場ながら何も知らずに国際政治舞台の裏側に送られ、タジキスタンの監獄に投獄されてイスラムテロリスト首領と談笑し、ポーランドの美術館で接触したロシアスパイを不本意に爆死させ、といった荒唐無稽なシナリオのまま撮影は続くのですが、監督イスマエルはシルヴィアとの破局のショックのため、撮影現場から逃げ出し、北フランス、ルーベ(註:ここはアルノー・デプレッシャンの出身地)の古い館に籠ってしまいます。この辺りから映画は混沌と狂気が支配的になり、アルコールと薬物と自己破壊衝動は血走る目のマチュー・アマルリックならではのトリップ加減です。キューブリック流のマッド・シネアストと申しましょうか。
 その狂気にも関わらず、映画をなんとかして完成させようと、映画のエグゼキュティヴ・プロデューサー(演イポリット・ジラルド。怪演!)がイスマエルの居場所を突き止め、シナリオの続きを書いて撮影現場に戻るように説得しようとします。イスマエルは俺がいなくても助手に撮影を任せればいい、と、その狂気のシナリオの続きをプロデューサーに開陳しますが、いよいよ混沌と不条理と荒唐無稽さは頂点に達し、思い余ってイスマエルはプロデューサーに発砲して負傷させてしまう...。
 絶対収拾のつきっこない映画になってしまった、と思った頃に、アルノー・デプレッシャンは唐突なハッピーエンドを持ってくるんです。まずカルロッタは父親アンリの前に姿を表し、その(幽霊)ショックでアンリは心臓発作で救急病院に担ぎ込まれ、 ほぼ死の床で父と娘は和解するのです。そしてシルヴィアとイスマエルは.... 詳しくは書きませんが、ハッピーエンドなのです。山ほど積まれた続くストーリーの数々を全部蹴散らして、「今のところはこんな感じで」という終わり方。デストロイな映画だと思いますよ。これを賞賛する人たちもいるんでしょうが。

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)『イスマエルの幽霊たち』予告編


2017年5月9日火曜日

ウーエルベックから見た大統領選2017

 2017年5月7日、フランス大統領選挙決選投票はエマニュエル・マクロンが65%の得票率でマリーヌ・ル・ペンを破り、新大統領に当選しました。この大差の原因の一つが、5月3日のテレビによる両候補対決討論だったと言われ、マリーヌ・ル・ペンの討論戦術の質の低さが「歴史的」なものだったと論評されました。このテレビ対決討論の翌日、5月4日(木)に、フランス国営テレビFRANCE 2の番組レミッシオン・ポリティークは、マクロン/ル・ペン両候補の支持者地盤のようにはっきりと分かれてしまったフランスの都市部と周辺地方を「ふたつのフランス」と題したテーマで展開し、そのゲスト出演者のひとりとして作家ミッシェル・ウーエルベックが発言しました。部分的に大意訳してみました。

 ー この選挙戦を注目していましたか?
ミッシェル・ウーエルベック(以下 MH)「興味深く見ていたが、徐々に不安が増大していき、それは自分の無知への恥に変わっていった。それはいわゆる "周辺のフランス (France périphérique)"のことを私が知らなかったということだ。私はこのフランスとのコンタクトを失ったのだ。この"2つ目のフランス”はマリーヌ・ル・ペンに投票するか、誰にも投票しないかの二つのチョイスしかない。これを知らなかったということは作家として"重大な職業的過失”である。」
ー どうしてあなたはそのフランスとのコンタクトを失ったのですか?
MH 「私にはもうそのフランスが見えなくなっているのだ。私は既に "グローバリゼーションのエリート階級”に属するようになってしまってる。わかりますか?私の本はドイツでも売られているのですよ、すごいことだ。」
ー でもあなたはフランスに帰ってきて、普段町で買い物をするでしょう?
MH「そのフランスは私の住んでいるところにはないのだ。パリにそれはない。パリではル・ペンは存在しないに等しい。それは地理学者クリストフ・ギリュイ(著書  "周辺のフランス (France périphérique)" 2014年)が明らかにしたように、人々によく知られていない周縁地域に存在する。」
ー この番組で紹介されているような周辺のフランスの人々の不安や怒りをあなたは理解できますか?
MH「それを十分に理解できないというのが、私の不快感の所以なのだ。私はそれについて書くことができない。それに私は苛立つのだ。」
ー あなたの政治的観点からも彼らの苦渋や不安が理解できないのですか?
MH「私は彼らと同じ状況にいないのですよ。私は思想による投票というのは信じていない。投票は階級によってなされるのだ。”階級”という言葉は古臭いと思うかもしれないが、ル・ペンに投票する階級、メランションに投票する階級、マクロンに投票する階級、フィヨンに投票する階級ははっきりと区別がついている。望む望まないに関わらず私はマクロンに投票する階級に属している。なぜなら私はル・ペンとメランションに投票するには金持ち過ぎていて、フィヨンに投票するほど財産持ちの子孫ではないのだから。」
(中略)
ー (選挙戦全体に関する感想)
MH「私はそれはエキサイティング(palpitant)だと見ていた。おそらくテレビ連ドラ『コペンハーゲン』(デンマーク制作の政治連ドラ 2010〜2013年)よりずっと面白いと思う。しかし結果は絶望的な方向に向かっている。私が記憶する限りそれはぞっと昔に保守・対・左派という二極対立から始まり、それが機能しなくなりFNが登場して三者対立になり、それも機能しなくなる。その後はたいへんな大混乱で、社会党は消え去り、保守だって生き延びれるかどうかわからない、そして残ったのがマクロン、メランション、ル・ペンの3人。保守が生き延びればそれに4番目として加わるかもしれない。フランスを"舵取り不能”にする新しい4者システムに陥る。まったく舵取り不能だ。」
(中略)
ー マクロンの急伸長についてはどう考えますか?
MH「彼の選挙運動の展開を見ていると、一種の "集団セラピー”のような印象を受ける。フランス人を楽観的に変身させるためのセラピー。大体においてフランス人は悲観的で、その悲観はヨーロッパの北の国々、とりわけドイツと自分たちを比較する傾向から来るものだ。フランス人は彼らと比べて自分たちを過小評価する。マクロンはその悲観傾向を一挙に楽観化しようとしている。」
(中略)
ー あなたの小説から見えてくる未来のフランスは産業も経済活動もなくなり文化遺産だらけになった博物館のような国ですが...。
MH「脱産業化の傾向は現実のものだ。その脱産業化傾向のグラフの曲線を延ばしていくと、未来には全く産業がなくなる。私の意見ではそれはカタストロフではない。もしもグローバリゼーションのルールを受容すれば、フランスにも出せるトランプ札はある。」
ー 希望があるということですね?
MH「グローバリゼーションの中で、われわれの強みを出せる分野もある。例えば手工業や美食関連業や観光業など。これは多くの職を生めるんですよ。おまけにこの職業はデロカリゼ(*安い賃金の外国への工場の移転のこと。産業移転)できないという利点がある。私は産業に対して深い不信感がある。特に最近あったワールプール(Whirlpool)アミアン工場の閉鎖移転は耐え難いほど酷いものだった。国が国民の税金を使って援助している工場で、しかも多くの利益が上がっているにも関わらず、産業のトップはこれを閉鎖移転してしまったのだ。だから私はデロカリゼできない職業を信用するべきだと思っている。」.....

 マクロンの選挙運動は一種の「集団セラピー」である、という分析、注目しましょう。何も怖くない39歳が、熱狂的な集団「躁」状態を作り出すような演説集会の動画 を見れば、ウーエルベックの指摘はど真ん中です。

(↓)2017年5月4日(大統領選第二回投票の3日前)、国営テレビFRANCE2「レミッシオン・ポリティーク」にゲスト出演したミッシェル・ウーエルベック