2017年3月2日木曜日

あとで肘鉄クラウディオ

クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ...」(1974年)
Claudio Baglioni "E Tu..." (1974)

 1951年ローマ生まれのカンタオトーレ、クラウディオ・バリオーニの5枚目のアルバム『エ・トゥ...』 (1974年)はパリ録音。軍政ギリシャを逃れて1968年にパリで結成されたギリシャのプログレッシヴ・ロックバンド、アフロダイティーズ・チャイルド(デミス・ルソス、ルカス・シデラス、エヴァンゲリス・パパタナシウ)は1970年に解散するが、その後も後年「ヴァンゲリス」として知られることになるエヴァンゲリス・パパタナシウ(72年頃「エ」が取れて、ヴァンゲリス・パパタナシウに)はパリで映画音楽やソロアルバム制作をしていました。1974年には英プログレ・バンド、イエスからリック・ウェイクマンが脱退し、その後釜キーボディストとして加入をオファーされてヴァンゲリスはその夏2週間に渡ってイエスとリハーサルしているが、加入には至っていません。そんな時期にこのクラウディオ・バリオーニとの仕事はやってきた。このアルバムでヴァンゲリスは全曲の編曲を担当している他、ドラムス、エレピ、ハモンド、各種パーカッション、ハープ、電子ハープシコード、クラヴィネット、フルート、マリンバ、ヴァイブラフォン.... まあまあ八面六臂のアシュラ様だったのです。
 アルバム表題曲でシングル盤となった「エ・トゥ...」はその年イタリアのチャートで11週間連続の1位、50万枚のセールスを記録する大ヒットとなりました。夕暮れの浜辺、いちゃつく男女のシルエットという、いかにも、のジャケに彩られた必殺のラヴ・スローバラードです。何の解説も必要としない。歌詞は訳すのもかったるい浜辺ラヴソング。この歌は後年もバリオーニのエヴァーグリーンとしてライヴのレパートリーに欠かせない曲になってますが、オリジナルにはなかった「アウトロ」がどんどん重要になっていく、という珍しい進化を遂げて40数年熟成の名曲になっています。
うずくまって海の音を聞いていた
息もせずに
どれほどの時間が流れたことだろう
指できみの横顔をなぞる
風がやさしくきみの服を撫でていく

そしてきみは
僕にまなざしを
僕に無邪気な微笑みを
裸足の僕は
きみの髪を撫でていた
蟻んこと遊ぶのをやめて
眼を閉じた
もう何も考えない
きみは寒くないのかい
きみは寒くないのかい

夜の闇に隠れていた星たちが現れ
突然きみの肌に震えが
そして息が切れるまで
二人で競争して走った
どちらが先にめげるか

そしてきみは
僕の様々な考えの一つ一つに 
ため息をつき
僕は押し黙った
すべてをぶち壊しにしないために
そして一本の草を
きみの唇に当てた
きみがもっときれいに見えるかもしれないと
髪の毛を持ち上げてみた
きみのことがますます好きになる
きみのことがますます好きになる
ひょっとしてきみは僕の恋人なの?

そして今や僕にはきみしかいない
僕の心の中で輝いているのは
たった一人きみしかいない
これ以上僕には何ができるだろう
もしもきみがいなくなったら
この恋をもう一度取り戻すことなんて

戯れに二人は着たままで海に飛び込んだ
口づけ、もう一度、もう一度
何もきみに言えなくて

きみは透き通っていて
やさしく
きみはすでにすべてがあった
でも僕には
信じられなかった
僕はきみを固く抱きしめた
二人の衣服はびしょ濡れで
冗談だったねと笑い合った
急にやめてしまったけれど
僕はね、本当はね
きみが必要なんだ
きみが必要なんだ
僕に少しの愛をくれないか

そして今や僕にはきみしかいない
僕の心の中で輝いているのは
たった一人きみしかいない
これ以上僕には何ができるだろう
もしもきみがいなくなったら
この恋をもう一度取り戻すことなん

(↓)クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ」(1974年)


(↓)フランスも1976年までテレビは白黒だった。イタリアも事情は同じか。1974年テレビショーライヴ、クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ」。時代はベルボトムだった。


(↓)1982年ライヴ、クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ」。アウトロがかっこよくなってる。


(↓)1991年ライヴ、クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ」。アウトロがますますかっこよくなってる。


(↓)2001年ピアノ弾語りライヴ、クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ」。伸びすぎる声でアウトロいらず。


(↓)
2010年ロンドン、ロイヤルアルバートホール・ライヴ、クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ」。アウトロで立ち上がりギターに持ち替える。アウトロで客席にイタリア国旗が翻る。そういう歌なんだから、もうイタリア国歌になってもいいほど。





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