2015年12月19日土曜日

マリーヌのいる朝

フランソワ・デュルペール(文)&ファリッド・ブージェラル(画)『ラ・プレジダント』
François Durpaire & Farid Boudjellal "La Présidente"

 2017年5月7日(日曜日)フランス大統領選挙第二次投票、現職フランソワ・オランド(社会党) vs マリーヌ・ル・ペン(FN)の決戦投票は、50,41%でマリーヌ・ル・ペンが勝利します。
   パリ19区ベルヴィル街に住む95歳の老婆アントニエット(第二次大戦のレジスタンス女戦士)、その孫のステッフ、タリック、そしてアントニエットの介護をするセネガルからの女子法科留学生のファティ、この4人が極右大統領誕生のショックから、老婆に倣ってレジスタンス活動に入り、ブログ "résistance.fr"を創設します。
 この作品は、歴史学者・大学教授・BFM-TV(ニュース専門テレビ局)レギュラー解説者のフランソワ・デュルペール(1971年ポワチエ生れ44歳。→の頭髪がトレードマークです)がシナリオを書き、BD作家ファリッド・ブージェラル(1953年トゥーロン生れ62歳。幼い頃にポリオにかかり、学校に行けなかった体験をもとにした自伝的作品『プチ・ポリオ』三部作で知られる)がアルバム化したBDです。出版されたのは2015年11月です。タイミングとしてはその12月に行われるフランス州議会選挙(Election Régionale 2015)に大勝が予想されていたFNの破竹の勢いを受けて、このまま進めば2017年大統領選挙も、マリーヌ・ル・ペン大統領誕生というのは非常に現実的なシナリオと思われていた時期に発表されたのでした。ところが、このBDが出版された直後に、かの11月13日金曜日のパリ(+サン・ドニ)のジハード・テロが起ったのです。
 それによってこのデュルペールのシナリオは若干の狂いが出てきます。例えば、2018年2月に国会議長フロリアン・フィリポ(2015年現在はFN党副代表)が誘拐されるという事件が起き、大統領マリーヌ・ル・ペンは国家の最重要人物のひとりの命に関わる事態として、フランス全土に国家非常事態(Etat d'urgence)を宣言し、警察&軍隊総掛かりの国家規模の容疑者捜索を敢行し、政敵や宗教関係者などを片っ端から逮捕してしまうということをします。ところが2015年11月的現実では、かのジハード・テロのために国家の非常事態を今、実体験している。FN政権ならずとも、社会党の現政権はデュルペールのシナリオの非常事態体制と似たようなことをやってしまっているわけです。
 それはそれ。大統領選挙のシナリオはこうです。第一次選挙の結果は第一位マリーヌ・ル・ペン、第二位フランソワ・オランド、そして第三位が既成保守第一党のLR(共和党)ニコラ・サルコジです。ここで敗れたサルコジは支持者たちに第二次投票の際にどちらの候補に投票せよという指示を出さないのです。(2015年12月的現実として、州議会選挙第一次投票で、やはり複数の州でFNが首位に立って、第二位には既成保守だったり左派だったりしたのですが、社会党は自党候補が第三位になった州では自党候補を棄権させ、第二位の保守候補を支持してFN州知事誕生を阻止せよという方策を取ります。ところが保守リーダーのサルコジは、自党候補が第三位でも社会党との共闘はあり得ないと、FN封鎖の方策を拒否します。このことでこの12月中旬現在、保守LR党内でサルコジのリーダーシップに問題があるという批判が持ち上がっているのです)。LR支持者たちは、タカ派(つまり右派の右派ですから極右寄り)と穏健派(右派であっても極右とは組まないという人たち)に分かれ、前者はル・ペンに、後者はオランドに投票することになります。 その結果、ル・ペン 50,41 %、オランド 49,59 %という得票率で、フランス初の女性大統領(ラ・プレジダント)が誕生した、というストーリーです。
 それに続く国会選挙でも、結果は極右3分の1、左派3分の1、保守3分の1という議席配分で、このうちの保守の過半数が極右と協調関係にあるので、極右政権は安定多数を手中に収め、内閣には極右に混じって、複数の保守右派の人物が大臣となります。上辺は極右+右派連合政権のように見えますが、右はみな右ですから。そしてマリーヌ・ル・ペンは内閣首班・総理大臣として自党FNではなく、LR党のジェラール・ロンゲ(1946年生れ。バラデュール内閣の経財相、フィヨン内閣の防衛相。学生時代に極右グループのリーダーだった経歴あり)を指名します。ほとんど政治生命の終った人間に、人形首相の役割を与えたわけですが、このシナリオはうまいなあと思いましたよ。
 そして、政権を掌握したFNはもう何年も前から公表しているFNの政治プログラムを次々に実行に移していきます。シェンゲン圏離脱、フランス国境の再確立、不法滞在移民の国外追放、移民・難民受け入れの停止、ユーロ通貨圏からの離脱(国貨フランの復活)...。
 経済的には大パニックを生みます。国際競争力のない新通貨フランス・フランはユーロに対して切り下げを余儀なくされ、国庫負債はユーロ時代より倍増し、輸入品の高騰、インフレ、購買力の低下は著しいものとなります。当然市民たちは街頭に出て抗議デモを激化していくのですが.... この辺が政権の世相読みが今の日本と極似していて、「声を上げて騒音を立てているのは少数派で、多数派はまだまだ沈黙している」と分析して、その政策を変えようとはしません。
 外交的にはマリーヌ・ル・ペンのフランスは孤立します。アンゲラ・メルケルを(実質上の)欧州連合のリーダーとするヨーロッパは、フランスの独立独歩試行に対して冷淡であり、アメリカ(ヒラリー・クリントン大統領!)はもはやフランスを信頼できるパートナーとしません。FNのフランスはプーチンのロシアを最恵友好国とするのですが、これも数ヶ月後には全く信用できないパートナーであることが露呈してしまいます。「露呈」という言葉おもしろいですね。
 パリ19区、ベルヴィルの4人はこの状況を日々のテレビ(BFMーTVとiTELEという2つのニュース専門局が、それを克明に伝えるというBDイメージが面白いです。実名のキャスターたちや解説者たちがFN時代前と変わらないジャーナリスティックな視点で報道するのが救いです。国営放送や大手メディアは、FN政権によって予算や補助金が出なくなるという事態に全面ストライキで対抗して報道を放棄しているというのも一流の皮肉です)で分析し、ブログ "résistance.fr"で反撃論陣を張るのですが、もちろんFN権力当局にマークされ、ブログ存続の危機にまで至るだけではなく、当人たちが逮捕されるところまで事態は深刻化します。95歳の老レジスタンス女闘士アントニエットは無念の死を遂げ、滞在許可証の更新を拒否されたセネガル女ファティは強制送還されます。残された二人の若者はインターネットを奪われても、手書きででもレジスタンスを続ける覚悟です。
 異変は海外領土から起ります。太平洋上のフランス領土ヌーヴェル・カレドニー。1988年、独立派(カナック)と本土系裕福層(カルドッシュ)の間の紛争を時の首相ミッシェル・ロカールの調停で、住民投票による独立へのプロセスが規定され、1998年の投票で20年後(2018年)の独立が採択されたにも関わらず、その1年前に中央権力を握ったFN
政権はそのプロセスを破棄して本土からの独立を白紙化します。カナックの暴動が激化し、本土政府は軍隊を派遣して鎮圧を図ろうとしますが、ヌーヴェル・カレドニーは内戦状態に陥り多数の死傷者を出します。
 本土ではユーロ離脱政策により主要産業の株が大暴落し、ストライキとデモの勢力は日々膨張していきます。公安は左に厳しく右に甘い取り締まり体制を顕著にした挙げ句、極右のそのまま右側を行くウルトラ極右が伸張し、現行の極右政権では生温いと、ゲリラ・テロ戦術でFN政権に脅しをかけます。それが既に上に述べた「フロリアン・フィリポ誘拐事件」です。
 このBD作品の終幕は2018年2月です。海外領土からも諸外国からも国内レジスタンスからも大企業・資本家層からもウルトラ極右からも揺さぶられ、強硬策を取るか柔和策を取るかを迫られたマリーヌ・ル・ペンは、どうするのかという問いに "Je ne sais pas(知らないわよ)"と言ってしまうのです。エンドマーク。

 近未来予測は難しく、リスクは大きいです。ウーエルベックの『服従』 (2015年1月刊行)とブーアレム・サンサル『2084』(2015年9月刊行)という二つの近未来小説は、穏健派と過激派の差こそあれ、イスラムの支配ということを予測して大ベストセラーになりました。FNのフランス支配はそれよりもずっと近未来に現実性のあることのように、私たちの現在は進行しています。2015年12月の州議会選挙の結果(このデュルペールの描いたシナリオとはやや違い)、FN州知事の誕生はありませんでしたが、単独政党としては今や社会党(PS)と共和党(LR)を上回る国内第一党としての勢力をさらに伸ばした得票率でした。
 しかし、実際に政権を取ったらどうなるのか、ということをこれまでちゃんとシミュレーションしたものは少なかったと思います。このBDは、FNのマニフェストを一字一句違えることなく正確に写し、それの現実化はどういうことなのかを視覚化した構成になっていて、決して誇張した反FNプロパガンダとはなっていないことが、称賛に値します。リアルに近いシミュレーションと言えます。たしかに11月13日テロ事件以後、このシミュレーションは若干の修正を必要とするところはあるかもしれません。それを差し引いても、FNが現実にやろうとしていることはこのBDでほとんど明瞭に把握できます。
 このシナリオの中で、2017年12月19日に、前FN党首にしてマリーヌの父であるジャン=マリー・ル・ペンが死去し、国家の英雄として国葬になる、というエピソードがあります。笑いをさそうためのエピソードでしょうが、笑いごとではないブラックさに寒気を覚えます。

FRANCOIS DURPAIRE & FARID BOUDJELLAL "LA PRESIDENTE"
LES ARENES BD・DEMOPOLIS刊 2015年11月 160ページ  20ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆ 

(↓) ケーブルTV(FDM)上で自著を語るフランソワ・デュルペール。収録は11月12日、すなわち11月13日のジハード・テロの前日。

2015年12月18日金曜日

クロパン・クロパン


パン・ノワール『パン・ノワール』
PAIN-NOIR "PAIN-NOIR"

 ジャン=ルイ・ミュラの町、中央山塊オーヴェルニュ地方の主邑クレルモン・フェランの人、職業小学教師、フランソワ=レジス・クロワジエのひとりバンド。「パン・ノワール」とは言うまでもなく黒パンのこと。このバンド名(あるいは芸名)はフランソワ=レジスの夢に由来します。
なぜだかよくわからないけれど、僕はある一対の名詞ということが頭から離れなかった。そのこだわりのせいに違いないのだが、ある夜僕は夢を見て、映画『狩人の夜』の伝道師に似た男が出てきて、彼は両手の指関節に「Pain」と「Noir」という刺青がしてあったのだ。こんな夢を見てしまったらもはやこの名前から僕は逃れられないではないか。
(レ・ザンロック誌インタヴュー)

 1955年公開のアメリカ映画『狩人の夜』(チャールズ・ロートン監督)では、ロバート・ミッチャム扮する凶悪犯罪者にして偽伝道師であるハリーは、両手の指関節に「Love」と「Hate」という刺青が入っています。「パン」と「黒」、これは相反する一対のものなのでしょうか? 
 私の場合「黒パン」と言うと、いの一番にアニメ『アルプスの少女ハイジ』を連想してしまうのですけど、山でおじいさんと一緒に食べてるのが「黒パン」、奉公に出されたフランクフルトという大都会で食べるのが「白パン」でした。ペーターのおばあさんが、黒パンは固くて食べづらいと嘆いていて、町からハイジが白パンをお土産に持っていくと、涙を流して喜びます。中央山塊オーヴェルニュ地方では黒パンなのでしょうか?

 アルバムの最初と最後にこの「黒パン」と題された曲(最初は「黒パン - 夜明け」というインストルメンタル曲、最後が「黒パン - 夜」という歌詞つきの歌)があります。
僕はきみの2本の手に刺青された「パン」「ノワール」という二つの言葉の夢を見た
このストーリーは僕はその最後しか知らない
僕を一瞬にして締め付けたこの恐怖は一体何なのだ?
僕はきみの2本の手に刺青された「パン」「ノワール」という二つの言葉の夢を見た
夜の中ではすべてが僕には少し不健全に見える
僕に一瞬にして戻って来たこの恐怖は一体何なのだ?
僕はきみの2本の手に刺青された「パン」「ノワール」という二つの言葉の夢を見た
闇の中で僕はあの朝のことを思い起こした
きみの微笑みが一本の道のような形になったあの朝を
僕はきみの2本の手に刺青された「パン」「ノワール」という二つの言葉の夢を見た
そして夜の中であの朝のことを思い起こした
すると一瞬にして消えてしまったあの恐怖は一体何だったのだ?

 黒パンは物体ではない。それは闇の中の二つの言葉であり、それは大いなる恐怖をもたらすが、朝のきみの微笑みを思うやいなや、その恐怖は一瞬にして消えてしまう。一体あの恐怖って何だったのでしょうねえ? ー 極私的な事象や心象が歌になる。私たちのフォーク、私たちのシンガーソングライターというのは(たぶんに70年代的に)そういうところがあって、私はフランソワーズ・アルディやローラ・ニーロをそんなふうに聞いていたのでした。一語一語がそういうふうに発語されると、極私的はコミュニカティヴで、振動が伝わるものです。こんなのが好きになったら職業作詞家の常套句ライムにアレルギー反応起こすようになりますよ。
  それはそれ。クレルモン・フェランの音楽シーンではそれなりにキャリアのある人で、以前はSt. Augustine(サン・トーギュスティーヌ/セイント・オーガスティン)というバンドで英語で歌っていました。アルバムは2枚出して、ツアーも多くして、いっぱしのミュージシャンだったのですが、「疲れた」とフランソワ=レジスはやめてしまいます。何と言っても彼の喜び、彼のやりがいのある仕事、彼の天職は児童教育なのです。学校で子供たちと接しているときほど充実した時間はない。音楽のために1年間教師生活を休止していたこともあったが、どうしても子供たちの前に戻りたくなる。そういう人。
 大学では英文学を専攻したそうで、だから自然と英語で歌を作ることはできて、ST AUGUSTINE時代はすべて英語だった。それをやめて教師生活に戻って以来、フランス語で歌うようになり、教室で子供たちの前でギターを取り出すこともあるそう。
 「友人が出版社を立ち上げようというプロジェクトがあり、音楽の創造過程に関する本を出したいと言って協力を求めてきた。僕はそれまでフランス語で曲を作ったことがなかったのに、次々に曲が出来てしまった。この本は結局日の目を見ることはなかったが、僕にたくさんの歌が残されたんだ」(パリジアン紙2015年10月23日)
  自らのギターで作曲伴奏し、時折ピアノ(フランソワ=レジスの伴侶。音楽教師でピアニスト)が加わります。手作り。アルティザナルな作風でその極私的な事象・心象の風景を描いていきます。2015年春頃からSNSと国営ラジオ系のFM(FIP, フランス・ブルー、フランス・アンテール)で頻繁に聞かれるようになった、パン=ノワールの最も知られている曲が「貯水湖(La Retenue)」です。

ダムで堰き止められた水が村の外壁を浸し、出て行くときが来た時も住民たちはおどおどするばかりだった。
ダムで堰き止められた水は今や村の通りを浸し、森と野は浜辺の岸や小径に変わってしまった。
子供たちが遊んでいた広場はどこに行ってしまった?
そんなに前のことではない、私たちは野性の生活からほど遠いところで
流砂を避けて暮らしていたことを忘れてしまったのか?
この貯水湖は
さらにもう一回
この貯水湖は
さらにもう一回私たちを殺す
今私たちはダムのふもとに暮らしている。この壁はなにかの前兆か不気味な幽霊のように、猛って私たちを溺れさせることを脅しているようだ。
でも少し前までわたしたちは世の中から遠く離れて生きていたのだと思うことすら
早くも忘れてしまって
私たちはほろ酔い加減で楽しむことができるのだが、
なにものも時を蘇らせることはできない
この貯水湖は
さらにもう一回
この貯水湖は
さらにもう一回私たちを殺す

 エコロなのか、年寄りっぽいのか、それとも...。日々、私たちの目の前で姿を変え、かつてあったものでなくなり、私たちのゆっくり流れる時間の記録・痕跡が消えてしまっていることを見ていますよね。時は暗殺者。 Le temps est assassin。このフランソワ=レジスはそこに立ち尽くして見ている男のように思えます。それを極私的なことばで、やさしく子供たちに歌ってきかせるようなメロディーで歌をつくります。これって、今日、希有だと思いますよ。
 
ひげ面、コール天ズボン、木樵のネルシャツ...。1980年生れだそうだから、現在35歳。2人の子供の父親。そして誇り高い小学校教師。コンサート活動は学校の休みの時期にしか行わない。若い頃の細野晴臣にも似た慈愛の低音ヴォイス。ギター、ピアノ、パーカッションだけではない、山の自然音や、フランソワ・ド・ルーベ風な優しい電子楽器の音が挿入されて、ヒューマンでオーガニックなアンサンブル。これは2015年的フランス深部が生み出した奇跡的フォークだと思いますよ。

<<< トラックリスト >>>
1. PAIN NOIR (à l'aube)
2. REGUIN- BALEINE
3. STERNE
4. LEVER LES SORTS
5. PASSER LES CHAINES
6. DE L'ILE
7. LA RETENUE
8. LES SABLIERES
9. PAREIDOLIA ( Continent nouveau )
10. JAMAIS L'OR NE DURE  (duet with MINA TINDLE)
11. LE JOUR POINT
12. PAIN NOIR (le soir)

PAIN-NOIR "PAIN-NOIR"
CD SONY MUSIC 88875146002
フランスでのリリース : 2015年10月23日

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)"LA RETENUE"(貯水湖)クリップ


(↓)"LA RETENUE" 別クリップ



PS:タイトルの出典はアンリ・サルヴァドールの「クロパン・クロパン」



 


2015年12月9日水曜日

私の好きなアンチ・ジハーディスト

インナ・モジャ『モーテル・バマコ』
Inna Modja "Motel Bamako"

 ンナ・モジャは1984年マリのバマコ生れの音楽アーチスト、女優、マヌカンです。これが結構虚飾に満ちて見えるのは、2011年の世界的ヒット"French Cancan"のイメージによるものです。サリフ・ケイタライユ・バンドでデビューした女性ですが、チャーミングな容姿は文句のつけようがありませんけど、商業臭さプンプンのこの軽薄英語ポップは、ずいぶんこの人を「一発ヒットの」「使い捨ての」「純芸能界の」という偏見をつきまとわせたはずです。
 この女性にとっても、故国マリが2012年に北部をイスラム過激派に占領され、多くの北部住民たちが犠牲になったり避難を余儀なくされたり、特に世界遺産であるトンブクトゥー(ティンブクトゥ)の遺跡がジハード派占領者たちによって破壊された事件は非常に大きな衝撃でした。そして、ファッショナブルでショービズ・セレブのポップ・ソウル歌手であったインナ・モジャが、一転してマリにルーツ回帰して、故国の状況にコミットしたプロテストアルバムを制作したのでした。彼女の3枚目のアルバム『モーテル・バマコ』 (2015年10月発表)は、文字通り大部分がマリの首都バマコで録音され、土地の音(コラやバラフォン、マンダング・ブルース・ギター、自然音など)をたくさん導入し、英語の歌詞に混じって、インナはバンバラ語で歌いラップしています。大胆で斬新なエレクトロ・ポップとの融合です。悲しみと怒りと抗議の歌ばかりです。それはマリの内戦のこと、北部の女性たちが置かれている屈辱的な服従状態について直接的に歌われます。
私たちはこれらの侵入者たちと迎合しない
彼らは私たちの父親たちを打ち負かし
私たちの母親たちに服従を強いる
彼らは私たちの声を沈黙させようとする
(トンブクトゥー)
この曲のヴィデオ・クリップはバマコのフォトグラファー、マリック・シディベのスタジオで撮影され、ほとんど化粧なしの顔のインナが闘士的な表情で歌い(ラップし)、 女たちに口を覆うスカーフを取れ(沈黙をやめて発言せよ)と促します。


このアルバムでこの「トンブクトゥー」(2曲め)のすぐあとに「水 Water」(3曲め)というすばらしい歌が来ます。
I used to walk one hundred miles
to get water for my people
I used to walk one hundred miles
to get water, to get water
(水 Water)


 この2曲だけで、私は「意外にも」すごいアルバムを聞いてしまった気になりました。チャラチャラした(在パリ)芸能人イメージを一挙に吹き飛ばしてしまいました。お見それしました。ごめんなさい。支持します。

 2015年10月17日、テレビ・カナル・プリュスの番組『サリュ・レ・テリアン』(司会ティエリー・アルディッソン)に出演したインナ・モジャが、自分の体にまつわる非常に重要な体験を告白しています。それは4歳の時に、両親が不在の時に、大叔母が手を回してインナに女子割礼(エクシジオン、陰核切除)手術をさせてしまうのです。そしてこれはどうしようもないことと諦めていたのに、アーチストとなってパリに出てきたあとで、医学的にクリトリス再生手術は可能だと知るのです。しかもこの手術はいとも簡単なのです。ティエリー・アルディッソンのうまい表現を引用すると、この手術でインナは「スーパー・ウーマン」に生まれ変わったのです。そして彼女のさまざまなサクセスはこの「女性としての再生」のあとにやってくるのです。それ以来、インナはアフリカでのエクシジオン風習の廃止を訴えるアピールをしたり歌をつくったりして、アフリカの女性たちの解放のためのメッセンジャーにもなっているのです。
 (↑)このこと、重要だと思いますよ。

<<< トラックリスト >>>
1. OUTLAW
2. TOMBOUCTOU
3. WATER
4. SPEECHES (feat OXMO PUCCINO)
5. SAMBE
6. BOAT PEOPLE (feat OUMOU SANGARE)
7. THE MAN ACROSS THE STREET
8. MY PEOPLE (feat BALOJI)
9. DIARABY
10. FORGIVE YOURSELF
11. BROKEN SMILES
12. GOING HOME

INNA MODJA "MOTEL BAMAKO"
WARNER MUSIC CD 825646051083
フランスでのリリース:2015年10月

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)「フォーギヴ・ユアセルフ」オフィシャル・クリップ

2015年11月19日木曜日

今夜、俺たちは踊りに行く(アシュカ)

HK(アシュカ)ことカドゥール・ハダディは、1976年北フランス、ルーベで生まれたフランスのシンガー・ソングライターです。アルジェリア移民の2世で、北フランス(リール)を地盤としたラップグループMAPを経て、ソロ(彼をリーダーとするふたつのバンド、レ・サルタンバンクとレ・デゼルトゥール)では、ヒップホップとアルジェリア歌謡シャアビを融合させたスタイルでユニークな音楽性が注目されています。トゥールーズのゼブダの弟分と自他ともに認める社会派で、その歌詞は明白で、レイシズムやリベラル資本主義や環境破壊を糾弾するメッセージにあふれ、コンサートだけではなく集会やデモの場に積極的に登場する行動派です。その代表曲「オン・ラッシュ・リアン」 はフランスのデモ行進の定番レパートリーとなっているだけでなく、日本でも反原発や戦争法反対運動のデモで日本語歌詞で歌われているほど、世界的にポピュラーになっています。
 当ブログでも「憤激せよとアシュカは歌う」と「今朝のフランス語:Du temps de cerveau disponible」という2つの記事で紹介しています。また向風三郎がパリの日本語新聞オヴニーの2015年4月15日号に最新アルバム『星に灯りを点す男たち(Rallumeurs d'Etoiles)』の紹介記事を書いています。読んでみてください。
 その最新アルバムの6曲めに "SANS HAINE SANS ARMES ET SANS VIOLENCE"(憎しみも武器も暴力もなく)という歌があり、文字通り非暴力の抵抗運動を訴えるないようでした。そのアシュカが、11月13日の大殺戮テロにどう思ったのか。オルター・グローバリゼーション運動の機関紙 "ALTER MONDES"のインターネットサイトに、11月17日、アシュカが『今夜、俺たちは踊りに行く(Ce soir nous irons au bal)』というテクストを寄稿しています。アシュカは11月14日(土)に多くの市民たちと同じようにレピュブリック広場に行っています。テクストは歌詞のようにも見えます。これが歌になってしまうのかもしれません。テクストは、これを理由に現政権が好き放題することも見抜いています。怖がらずに外に出ること、そして踊ること、アシュカはそう誘うのです。
 以下全文を無断和訳して、当ブログに掲載します。

今夜俺たちは踊りに行く
Ce soir nous irons au bal


やつらは俺たちを最後のひとりまでバラバラにしたいんだろう
やつらは執念深く俺たちの自由を圧殺しようとするだろう
やつらはしまいには俺たちから笑顔を奪い去り
人と再会する希望や、みんなで集まる機会をぶち壊すだろう

俺たちがこの地球上でみんな兄弟で、心と体の恋人同士だって
まだ信じているなんて、どれほどおめでたいのだ?
やつらが仕掛けてくる戦争の度に、俺たちは自分の陣営を選ばなければならない
俺たちは選ばなければならない
俺たちの死体はやつらの墓地をいっぱいにしなければならないのか

俺たちのレジスタンス : 屈しないこと、譲歩しないこと
俺たちのパン、俺たちの喰いもの...  さあテーブルから立ち上がろう、踊りに行こう
俺たちが欲しいもののすべて、俺たちが望むもののすべて、
それは力の限りこの人生を愛することさ、俺たちを好き勝手に外出させてくれることさ

俺たちの足の下には、たくさんの罠があって、それに落ちないようにするのは難しい
何千人も志願者をスカウトするやつらのひとりの腕の中にはまらないようにするのは
「善良な人々よ、恐れおののきなさい!暖かい家の中でおとなしくしていなさい」
「善良な人々よ、われわれにまかせなさい!われわれがすべてうまくやるから」

こんなふうに、別の時代から飛んできたような注意勧告が下される
今に非常時緊急法が次々と来るぞ、だから.... 嵐の下で踊ろうじゃないか
「危険はいつか小さくなるんだから、
夏が来るまで待っておきなさい」
「そうですとも、元帥殿! 太陽がいっぱいの建国記念日の頃に」

そうとも! 今、外は雨が降っているが、この雨は甘美だ
外では人生は美しい、それがどんなに危険でも
俺たちの顔にかかる雨粒のひとつひとつ
それは砲弾の破片のように、石弓のたまのように、やさしい異端、楽しげな侮辱...

リュートの楽音に合わせてみんなで踊ろう
立って踊ろう、その理由は
俺たちがここにいるということ、俺たちが俺たちであるということ
俺たちが幸福だということ、俺たちが気が狂っているということ、ただそれだけ

外に出て踊ろう、どんなに悪くても
踊ろう、やつらが発砲していようとも
そうとも、俺たちは今夜踊りに行く
今夜俺たちは最高に美しく踊るだろう


(HK アシュカ)


PS : 2016年3月21日記。『今夜、俺たちは踊りに行く』 が歌になりました!

2015年11月18日水曜日

俺はこの日、フランス人になった(マジッド・シェルフィ)

2015年11月16日(月)のリベラシオン紙に、トゥールーズのロックバンド、ゼブダのリーダー、マジッド・シェルフィが一文を投稿しました。11月13日のテロ事件の衝撃で、マジッドは自分の立ち位置がはっきりしてしまったことを吐露します。この血の大殺戮は、自分にとって血の洗礼であった、と。
 当ブログに親しくない人たちのために説明しますと、ゼブダは1985年から活動しているトゥールーズのバンドで、マジッド、ムスターファ(ムース)、ハキムというアルジェリア(カビリア)移民2世(国籍はフランス)の3人をフロントメンとして、シングルチャート1位曲もあるメジャーシーンの有名バンドです。トゥールーズの草の根市民運動とも深く連携していて、政治的・社会的なメッセージを多く含んだ歌が多く、明確に左派系の行動派です。郊外問題、移民出身者差別の問題などに言及する歌詞が多く、Beur(ブール=アラブ系移民2世)のオピニオンリーダー的な立ち回りをしますが、彼らは(ここ重要です)一貫してフランス語で歌い、アラブ語やカビリア語の歌がありません。多文化が調和的に同居する小さなユートピア作りを、地元トゥールーズの地区で長年模索していて、そのために最低のルールとしてフランス語を共通語とする、としたのです。ゲットー化しないこと。ルールは共和国のルールであること。ライシテを尊重すること。そしてレゲエ、マグレブ音楽、ヒップホップ、ロックがミクスチャーされたゴキゲンな音楽で、すでに30年もトゥールーズとフランスを踊らせてきたビートバンドです。
 
そのリーダーのマジッド(1962年生)が、"CARNAGES"(大殺戮)と題する一文を左派系日刊紙リベラシオンに投稿したのですが、そこにはこれまで口にすることがはばかれたような「フランス愛」が展開されています。文は "Il y a des jours comme ça où...”(こんな日もあるんだ)で始まり、こんなことなかったのに、突然さまざまな日が自分とフランスをつないでいることに気がついたような展開です。おそらくトリコロール旗など一度も振ったことがない、ラ・マルセイエーズを歌えと言われても小声でしか歌えない、そういう過去を理解してください。われわれ(と私も含めてしまいますが)の控えめなフランスへの思いはおおいに複雑なのです。世界の主要都市のモニュメントの夜間照明がトリコロールになったり、世界のフェイスブックユーザーのプロフィール写真がトリコロールで飾られたり、というのとは次元が違うのです。
 以下全文を日本語訳しました(多少の誤訳はご容赦を)。固有名詞で説明が必要なものありますでしょうか? ペタン(第二次大戦時の対独協力フランス国家元首)、ジャン・ムーラン(第二次大戦時の抗独レジスタンス指導者)、アラン・フィンキエルクロート(哲学者、タカ派保守論客)、エリック・ゼムール(極右寄りジャーナリスト)、ナディーヌ・モラノ(保守政治家。フランスは白色人種の国と発言)、アラン・ドロン(モラノ発言を熱烈評価する90歳の老俳優)....。この血の大殺戮によって、マジッドは晴れてフランス人になれた、と宣言します。突然に、こんなフランス(どうしようもないフランスも含めて)をためらわずに愛するようになってしまった。私は共感できる部分多いです。

大殺戮 (Carnages)

こんな日もあるのだ。フランスを心から愛して、ラ・マルセイエーズを歌いたくなって、手のつけられない応援サポーターのように全身トリコロールになりたくなったり。またこんな日には自分があまりフランス人っぽくないなと自分を責めたり。こんな日にはマジッドと名乗る男でも、デュポンという名前だったらいいな、と思ったり。俺は頭がどうかしたのか?ショックを受けたのか? そうとも。だから俺は心の痛みが散らされるままにしておくし、ガツンとぶつけられた頭を休めることにしよう。

それは大殺戮だったし、それが俺にとっての血の洗礼だった。俺はこうして本物のフランス人になったのだ。断言したぞ。俺は市役所建物の正面に向かって、富める時も貧しい時もフランスを愛すること、その末期にいたるまでフランスを保護し、いたわることを誓ったのだ。俺がいかれちまったのかって? もう惚けたかって? 俺は生まれ変わったんだ。

こんな日もあるのだ。アナーキストでさえも大混乱のあと振るべき旗がこれ1本しかなくてそれが青白赤の三色旗だったり。こんな日にはこの国が間違っていてもこの国が好きになり、間違ったことをするのはそれが心底まで俺たち自身だからなんだと思うようになる。

こんな日にはこの国の人里離れた集落や村やそこにある戦没者慰霊碑がたまらかく好きになる。こんな日には老婆を400種類のチーズでねぎらってやれないことを悔やんでしまう。

こんな日には自分自身の母親よりもこの国の正義の方が大切だと思ったり、別の日にはその逆だったり。われわれの志である自由、平等、博愛を超越する日もある。生命よりも強い日があって、それは死の日なんだ。

そうとも。こんな日にはルノーやフェレやブラッサンスがフランスばかりを愛して、祖国を愛していなかったと非難したり。またある日には外敵の危険などなくても愛国者のふりをしてみたり。血や戦火を見る前に。

危険信号が鳴る前に、死者がそのひどい匂いをまき散らす前に、人はフランスを救おうと思うようだ。さあ、武器を取ってこの共和国、この国家という宝物を救おうじゃないか。こんな日には人は左派にもなれるし、右派にもなれ、お互いに賛同しないという権利を尊重する限り、どんな党派を支持したってかまわない。こんな対立意見や、極端で吐きたくなるような思想に対しても寛容な国を人は羨む。

こんな日には、法の原則や自由や(どんなに不器用に進められているにせよ)ライシテへの闘いのあり方を見直してみるよ、国民アイデンティティーの不毛な議論に責任に持つこと、たとえどんな状態になってもフランスに対して忠誠を誓うこと。すべての責任を負うこと、ペタンであろうが、ジャン・ムーランであろうが、卑怯者でも英雄でも、最高の技能者でも馬のような奴でも、頑固者も偶像破壊論者も? もはやこんな日には、フィンキエルクロートは聖歌隊の少年のようだし、フロン・ナシオナル党はただのゲームの対戦相手にすぎない。

こんな日にはウーエルベック本は彼が書いたことではなく、彼が恐れているものもののために読まれるのだ。またある日には冷静さをまるっきり失ってしまったゼムール、モラノ、ドロンの言うことも聞くはめになるのだ。別の日にはモミの木を2本買いたくなったりする。1本は伝統のおまつりを祝うため、もう1本は3つの言葉で俺たちに正当な場所を築こうとするこの国の努力を支えるために。

マルディ・グラにはクレープを、復活祭にはチョコレートを食べたくなる日だってある。

黒人であろうがムスリムであろうが、自分たちの先祖がガリア人であってほしいと思う日だってある。

こんな日には無名戦士の墓の前で頭を下げたり、一分間の黙祷と言われても嫌な顔をしないものだ。すべての「祖国の殉死者たち」に献花したくなる。その死者たちが前線で死のうが、レストランの奥の間で死のうが。こんな日、人は自分がつくべき陣営を決断するのだ。他に選択のしようがないのだから。

割れんばかりの拍手をあらゆる制服組に、公安警察、パラシュート降下部隊、刑事たちに送りたい日だってある。そんな日にはどんなさまであろうがあらゆるフランス人を好きになってしまうのだ。そんな日には。だが、そうでない日もまたあるだろう。

マジッド・シェルフィ(ゼブダ)



ゼブダに関する爺ブログ記事:
2009年9月10日:ゼブダはヴィデオで帰ってきた

2010年5月6日:兄弟の握りこぶし
2010年11月14日:もうすぐ再始動するゼブダを垣間みる
2011年12月10日:ゼブダが帰ってきたのを目の前で見た



2015年11月15日日曜日

今朝私はレピュブリック広場に来ました。


今朝私はレピュブリック広場に来ました。

 非常事態宣言が発令され、集会は禁止だ、厳戒態勢中だ、と言われながらも集まってくる市民たちはたくさんいました。
 なぜここに来たのかはそれぞれのさまざまな思いがあったからでしょうが、ここに来れば多くの思いがなにか同じところに繋がっているような気がしてきます。幻想と言う人もいますでしょうね。さっきまで知らなかった人たちが話し合います。手短かに悲しみや怒りを表す人たちもいれば、長々と議論する人たちもいます。やはり無言でいてはいけない。誰かに言わなければいけない。同じ思いならばそれを確認しなければいけない。同じ抗議や同じ怒りや同じ悲しみを共有したい。そういう時にこの市民たちはレピュブリック広場やバスチーユ広場にやってきます。自然発生的に。デモの発地や終点だったりするところでもあります。古来デモクラシーとは広場で議論することから始まったと言われます。世界でそういう広場はたくさんあるでしょう。独裁者は広場を嫌います。広場には民が集まるからです。パリにもたくさんの広場があり、デモや集会だってさまざまな広場で開かれますが、レピュブリック広場はそのシンボルでしょう。その名の通り共和制のシンボルでしょう。共和制は民が立ち上がって築いたものです。そのシンボルの広場がパリ11区にあるのです。
 11月13日の夜の事件の舞台になったパリ10区11区は、私にとって親しい地域です。1996年から2013年まで、17年間私は11区オーベルカンフ通りに事務所を借りて仕事をしていました。元々は職人町で家内工業的な生地染めや服飾工場や生地問屋などがたくさんあったところです。工場やアトリエの仕事ですから働き手は移民も多く、町は古くから多文化同居状態で、メニルモンタンやリシャール・ルノワールの露天市はみごとにマルチ・カルチャーです。大衆的で食べ物屋も安くておいしく、80年代から古い町工場や倉庫をロフト化してアーチストたちも多く住むようになり、小洒落たライヴハウスやバーもどんどん出来て若者たちが集まるようになったところです。オーベルカンフ/メニルモンタン、ベルヴィル/タンプル、サン・マルタン運河周辺は木・金・土の夜ともなればバーからはみ出した人たちで道がうまってしまうほどです。そんなところに、車で乗り付けたテロリストたちがカラシニコフ銃で乱射したのです。
 事務所から徒歩で15分ほどオーベルカンフ通りを南下したあたりにバタクランがあります。その頃の管轄の郵便局が数軒となりにあって、毎夕郵便物発送のために通いました。それから私の会社の銀行口座のあるLCLオーベルカンフ支店がバタクランの向かいにあって、今でも年に数回は銀行担当者に会いに行きます。バタクランは19世紀末に中国城館を模したつくりのミュージックホールとして作られた歴史的なコンサート会場で、私もこれまでトータルで50 回はそこでコンサートを見ているはず。パティー・スミス、MGMT、ジャック・イジュラン、ジャン・コルティ、アラン・ルプレスト....  2013年の11月13日、つまりあの夜のちょうど2年前、私はそこでブリジット・フォンテーヌを見ていた(facebookにも書き込んでいました)。ラティーナの2013年6月号に掲載されたケントのインタヴューはバタクラン・カフェで行われ、その号に載ったケントの写真はバタクランを背景にして娘が撮ったものでした。そこの床板に、11月13日夜、大量の血が流れたのです。

 報道では「無差別」や「乱射」という表現のしかたをされているようですが、これは場所も人間もテロリストに意図的に選択されたものでしょう。11月13日、テロリストたちはこれらの場所とこれらの人間たちを狙い撃ちにしたのです。
 テレビの報道番組に出たパリ市長アンヌ・イダルゴがこの10区・11区という場所の特殊性を強調して、この場所が選ばれた理由を説明しました。ここはパリで最も若い人たちが集まる地区であり、多文化が最も調和的に同居し、アートと食文化が町にあふれ、音楽が生れ、リズムとダンスを老いも若きも分かち合う、古くて新しいパリの下町です。パリで最も躍動的でポジティヴな面を絵に描いたような「混じり合う」町です。私たちの新しいフランスはこの混じり合いで良くなってきたのです。この混じり合いの端的な成功例が10区・11区なのであり、今の「パリ的」なるものを誇れる最良の見本なのです。これをテロリストたちは狙い撃ちしたのです。混じり合いや複数文化やアートを分かち合うことを全面的に否定し、憎悪し、抹殺してしまおうという考え方なのです。11区にはあのシャルリー・エブドの編集部もあった。11区にはかの事件のあと市民100万人を結集させたレピュブリック広場もあった。テロリストたちはこの町をますます呪うようになったのです。
テロリストたちがその独自の解釈で絶対法とした「シャリーア」は、享楽を禁止することで現世を浄化しようとするものと私は解釈しています。2014年のアブデラマン・シソコ監督の映画『ティンブクトゥ』で描かれたジハードたちが占領支配した砂漠の町では、音楽もスポーツも禁止されます。
 スポーツや音楽の歓びを人々が共有している場所で、11月13日、テロリストたちは自分の体に巻き付けた爆弾を炸裂させたのです。この歓びを共有する人々は死に相当する大罪を犯していたというメッセージです。
 あの夜スタッド・ド・フランス(サッカー国際親善試合 フランスvsドイツ)には8万人のファンたちがいました。ここに集まったのは死に相当する大罪を犯した人々である。爆弾が炸裂します。
 そのすぐあとで、パリ11区のコンサート会場バタクランで、カラシニコフ銃が乱射され、爆弾が炸裂します。米国カリフォルニアから来たロックバンド、イーグルズ・オブ・デス・メタル(私は自宅対岸の夏ロックフェス、ROCK EN SEINEで見たことがあります。タフでタイトなロックバンドという印象があります)はその夜パリの熱心な1500人のファンを集め、ホールは超満員でした。19世紀末、シャンソン・レアリストの創始者アリスティッド・ブリュアンも舞台に立った古めかしい歴史的なパリのミュージックホールで、21世紀的なビート音楽を楽しもうと集まったパリのロックファンたちが狙い撃ちされたわけです。
 道にはみ出したカフェテラスのバーで、気の合った友だちや家族と酒杯や異国料理を楽しむ人たち、しかもパリで最もそういう雰囲気にあふれた町で。アルコールや煙草を大罪と見做すジハードたちがいる。それがそのテーブルで金曜日の夜を楽しむ人たちめがけて弾丸を乱射する。

 おまえは死に値する。
おまえは音楽が好きで、スポーツが好きで、混じり合ったパリが好きで、金曜日の夜に華やいだ町で友だちと会って飲むのが好きだ。
 おまえは死に値する。
銃口が私やあなたに向けられたのです。なぜ? おまえは音楽が好きだろう。
私は13日夜から14日未明まで事件を報道するテレビを見続けて、何発も何発を銃弾を撃ち込まれたのです。パリはその論法からすれば、何百回でも何千回でも殺戮テロに襲われなければならない人たちの集まりなのです。

 政治のことは別の機会にします。私は私の意見があります。フランスは私のような外国から来た市民でも自由に意見を言えます。私はこのフランスのヴァリューを信頼しています。
フランスを信頼して、フランスに居合わせたおまえは同罪であると言われて、死の脅迫を受けたような事件です。
 フランスはこのような見せしめを与えないと、その政策を止めないだろう。
 フランス人(および私のようなそこにいる人)はこのような見せしめを与えないと、その享楽を止めないだろう。
 テロリズムとはterreur恐怖の効果によって、その思想を通し、それに反する人々を従わせることです。
 私たちは怖いです。恐怖します。コンサート会場で百人近い人たちが殺戮されるのを(映像はなくても)リアルタイムで報道された時、あなたや私のような人たちに銃口が向けられたと知る時、私たちは恐怖しないわけにはいきません。
すぐに在仏日本大使館から注意喚起のメールが来ます。人混みに近づくな、最新の情報を入手して行動せよ、不用意な行動は慎め...。
 私たちは子供ではない。ここにいるのはそれなりの苦労をしてきたし、いやな思いもしてきたし、人ともぶつかってきた。それなりの経験をして、それなりの代償を払って、私はここにいる市民たちと多くのものを分ち合っている。
 狙い撃ちされたのは、そういう文明であり文化であり価値であり、それを信頼してきた私たちなのです。
私たちはその恐怖を理由に、その信頼を改めるのか?
音楽が好きという理由で相手に弾丸を撃ち込む思想に屈服するのか?
スポーツが好きで、金曜日の夜に友だちと杯を交わすのが好きで、という人たちを、おまえは死に値すると断定する思想に屈服するのか?

 私たちは怖がってはならない。町に出なければならない。広場で人と会わなければならない。
 音楽は鳴り続けなければならない。私たちは踊り続けなければならない。
 スポーツの熱戦の興奮を分かち合うことをやめてはならない。
 ジャーナリストは報道し続けなければならない。ライターやブロガーは言いたいことを書き続けなければならない。戯画家たち・コミック芸人たちは世の中を茶化し続けなければならない。アーチストたちは表現し続けなければならない。
 恐怖によって「それは考え直した方がいい」とする考えを受け入れてはいけない。パリはこの1月にシャルリー・エブド事件でそれを学んで、多くの市民たちとそれを再確認したから、その後も世界で最も美しい町でいられたのです。
 私たちは何度でも同じことを言うだろう。怖がってはならない。政治家たちが「これは戦争だ」という論法で語るとき、私たちは本当に怖いのです。怖がってはならない。私はひとりではない。怖がってはならないと思っている自分と怖がっている自分が共存しているのは、私ひとりではない。だから私たちは広場に集まるのです。いろいろな顔を見て安心するのです。怒りや悲しみや恐怖は分ち合えるのです。
 とりわけ音楽は鳴り続けなければならない、と私は思います。コンサートは開かれ、ファンたちの興奮・熱狂は戻ってこなければならない。私が何十年も仕事として関わっている音楽、私が信頼して愛しているこのパリの町、そのヴァリューは私たちが守らなければならないと思うのです。それに死刑を宣告する思想には断じて屈服してはならないのです。断じて!

2015年11月15日
カストール爺こと、向風三郎こと、對馬敏彦

2015年11月10日火曜日

座礁マスト・ゴー・オン

Feu ! Chatterton "Côte Concorde"
フ〜!シャタートン「コート・コンコルド(コスタ・コンコルディア)」

 実:2012年1月13日(金曜日)、乗客乗組員合わせて4300人を乗せたイタリア国籍の豪華客船コスタ・コンコルディア号が、地中海クルーズの初日の夜、イタリア・トスカーナ海岸に近い島、ジリオ島の岸辺近くで座礁して転覆するという事故を起こしました。この事故に関しては日本語版ウィキペディアの「コスタ・コンコルディアの座礁事故」の項に非常に詳しい記述があるので、参照してください。日本人乗客も43人乗り合わせていたそうで、日本でも大きく報道されたかもしれません。上のウィキに書いてあるように、これは船長がいいかげんで、ジリオ島島民とジリオ島出身の乗組員にええかっこするために、わざと島に非常に近い海路を取ったこと、事故当時船長が女性たちと飲酒していたこと、事故が発覚した時乗客よりも先に船を捨てて逃げたこと、責任逃れのためにわざと遭難信号を出すのを遅らせたこと、など、このひとりの男のために起こった大惨事なのでした。死者32人。
 これをわれらが5人組、フ〜!シャタートンがドラマチックな歌にしたのです。そのファーストフルアルバム『ICI LE JOUR (A TOUT ENSEVELI) ここでは日の光(がすべてを覆いつくした)』(2015年)の中に収録されています。このバンドの並外れた表現力がよく納得できるでしょう。グラン・ジャック・ブレルを想わせます。
 タイトルおよび歌詞では「コスタ・コンコルディア」の仏語直訳の「コート・コンコルド」(調和海岸)としているので、敬意を表して、歌詞和訳も「コート・コンコルド号」としておきました。
 雨が降る、ジリオに雨が降る
トスカーナ海岸の
古く退屈な村

AAA級の莫迦野郎
おまえのことなど忘れてしまえばいいんだ
D某ストロース・カーンのように

あの金曜日、
新聞は大きな活字の見出しで書いた
時間が膨張した
景色の中に引かれた道路のような
事故っぽい文章で

雨が降る、ジリオに雨が降る
13日の金曜日
コート・コンコルド号の船上で
高慢な船長が
遭難信号を放つのを遅らせたのだ
信号を放つのを

入り江のすぐ近くで
船はゆらゆら揺れた
砂丘の上でひとりの男が
客船が沈んで行くのを面白がって見ていた

天から何本ものロープが下りて来た
それをよじ上るべきなのか、それともそれで首を吊れと言うのか
コート・コンコルドの甲板で
その夜、5つ星が消えてなくなった

出不精のあばら家住人たちが
国から出て物見遊山に出たら
こんなことが起こるんだ

岸を間近にした威風堂々の行進
だが、乳白色をした水は
歯抜けではなかったのだ

小さな岩がおまえの航路に
入り込もうとしたんだ
半分眠りかけていた海賊だったが

おまえの気違いじみたネオン光と
おまえの財布のジャラジャラ言う音に
眠りを何度も邪魔されて

それはおまえに噛み付いた
おまえの内側を咬み込んだ
これは天がたくらんだことか?
食い込んだ石が原因の
船舶の沈没?
その重くなった太鼓腹への一撃で

ジャクジに、スロットマシーンに
水が押し寄せた

水が押し寄せた

天から何本ものロープが下りて来た
それをよじ上るべきなのか、それともそれで首を吊れと言うのか
コート・コンコルドの甲板で
その夜、5つ星が消えてなくなった

入り江のすぐ近くで
船はゆらゆら揺れた
砂丘の上でひとりの男が
客船が沈んで行くのを面白がって見ていた


    (FEU! CHATTERTON "COTE CONCORDE")

(↓)LIVE DEEZER SESSION 2014のヴァージョン


(↓)LE FIGARO LIVE 2015のヴァージョン

 

2015年10月30日金曜日

火事になれば、またあの人に会える

フ〜!シャタートン『ここでは日の光(がすべてを覆いつくした)』
Feu ! Chatterton "ICI LE JOUR (A TOUT ENSEVELI)"


  2013年はストロマエ、2014年はクリスティーヌ&ザ・クイーンズ、そして2015年はこのフ〜!シャタートン。このクラスのアルバムに出会えるのは幸運です。まずバンド名は18世紀イングランドの詩人トーマス・チャタートンに由来します。中世英語詩の贋作者、困窮の中で17歳で服毒自殺した不遇の異才として、今日もカルト的評価を受けている人のようです。
 アルチュール・テブール(ヴォーカル)によると、インスピレーションは詩人そのものよりも、ヘンリー・ウォーリス(1830-1916)が描いた絵「チャタートンの死」(ロンドン、テイトギャラリー所蔵)の方が強烈で、この若き詩人の死に顔の美しさとその妖気のように立ち上がる悲劇性に心打たれ、絵に描いたようにドラマチックなバンドを象徴するにはこの名前しかあるまい、と。 "Feu"はフランス語では敬意を込めた故人への接頭形容詞で "Feu mon père"と言えば「今は亡きわが父」という意味になります。だから "Feu Chatterton"は「故チャタートン」なんですが、これに「火」の意味の"feu"をかけるんですね。"feu!"とエクスクラメーション・マーク(!)がつくと、火を放て、点火せよ、(ロケットなどの)発射せよ、(銃を)撃て、発砲せよ、という意味で使われます。だから"Feu ! Chatterton"は、「今は亡きチャタートンよ、キラ星のような詩才を世に認められず貧困のうちに自死した少年詩人よ、もう一度立ち上がって火を放て、世に復讐せよ」みたいなストーリーが込められた、優れて詩的なバンド名なのです。ここに既にネオ・ロマンティスムの炎が見えるようではありませんか。
 さてこの5人組は、2014年からル・モンド、テレラマ、レ・ザンロックといったメディアとSNS上でおおいに騒がれておりました。ダンディズム、ロマンティスム、エレガンス、文学性、映画性... 盛り沢山の要素を5人でできるバンドなのです。抒情系シャンソン・フランセーズ、港酒場系ロックン・ロール、(フランソワ・ド・ローベ風)映画音楽、プログレッシヴ・ロック....みたいなものがゴッチャになった音楽に、アルチュール・テブール(27歳)のフランス映画決めゼリフ風なヴォーカルがフィーチャーされます。ロマを想わせるエキゾチックな顔立ち()、無造作長髪、口ヒゲと(ネクタイ締め)テーラードスーツ、絵になる男です。こうなるとフランスのメディアはすぐに「ゲンズブールだ、バシュングだ」と大味な比較をするわけですが、趣味のわかる人たちは feu エルノ・ロータ(ネグレズ・ヴェルト)、feu ジルベール・ベコー(ムッシュー10万ボルト)の面影をそこに見つけたのでした。
  
  )あ、ロマとは関係なさそうでした。これで決めつけてはいけないんですが、Teboul という姓は、アラブ語の太鼓 "tubûl"に由来するとされ、北アフリカのセファラード系ユダヤ人が多くこの姓を名乗ったと、いう説明をここで見つけました。

 出てきた当初は、2013〜2014年フランスを湧かせたバンド、フォーヴFauve )と比較されもしました。フォーヴは青春残酷篇のようなスラム(フランス語)、ヒップホップ、抒情ギターロック、情景音楽、ヴィデオ(+ペインティング、写真)でのステージパフォーマンスが話題でした。CDだけではちょっとわからないところありますよ(わからないのは私だけか)。2015年の ROCK EN SEINEで見ましたが、若い衆の熱狂は大変なものでしたけど、若いという字は苦しい字に似てるわ、ですよ。それにひきかえ、フ〜!シャタートンは何枚も役者が上と私は思うのであります。

 2014年のEPに続いて2015年10月に出た初フルアルバムが『ICI LE JOUR (A TOUT ENSEVELI)』(ここでは日の光がすべてを覆いつくした)です。アルバムタイトルがもう何かの始まりのようです。フロントカヴァーの絵は19世紀象徴派の画家オディロン・ルドン(1840-1916)の「目を閉じて(Les Yeux Clos)」という作品です。目を閉じて光に覆われるのを待っているような図です。そしてジャケットを開くと、濃紺の下地塗りの二つの面の真ん中に白い小さな活字で、"LA, ENFIN, TOUT BAIGNE"(そして、やっと、すべては良好だ)と書かれてあります。長い夜の終わりを思わせるドラマチックな幕開けです。この2行はアルバムの終曲(12曲め)「カメリア」の歌詞の最初の2行です。
日の光がすべてを覆いつくした
そしてやっとすべては良好だ
赤く凶暴な静寂の中で
なあ、おまえは血を流しているのか?

うちは赤いカメリア、かめしまへん。ー などと続くわけないでしょ。ここでは悪の赤い華の香りに酔うボードレールのようなものを想ってくださらないと。

 スウェーデン、イエテボリのスヴェンスカ・グラモフォンステュディオン での録音です。この録音スタジオでは過去にストーンズ、ボウイー、マイルス・デイヴィス、スティーヴィー・ワンダー、レッド・ゼッペリンなどがレコーディングしています。ゼッペリンというのが曲者で、この5人の若者のリセの時の共通した超愛聴盤というのが、"ゼッペリン IV"なのだそうです。なんですか、私の高校(リセと言うにはちょっと...)時代と変わらないじゃないですか。閑話休題。プロデュースはサミー・オスタ。5人とこのオスタが伝説のスタジオで大はしゃぎしている図が目に浮かぶ、そんな音です。ホームスタジオとは違って、古いスタジオには古い機材・楽器・エフェクトがたくさんあって、それを全部使ってみようか、というサービス精神溢れるサウンドです。1曲1曲にマキシマムの音、マキシマムの効果、マキシマムの演出を詰め込んだような音楽です。今月はこの前にベルトラン・ブランの新アルバム『ウォーラー岬』 (拙ブログの紹介はここ)を聞いたのですが、ブランのミニマルな音、ミニマルな歌詞、ミニマルな編曲と比すれば、全く正反対の性質の大詰め込みアルバムと言えましょう。
 ヴォーカルは表現的で、情緒の揺れに敏感で、適度にワイルドで、ボクシング的抑揚があり、不良訛りがあり、文学的と言うよりハードボイルドな不良ロマンティスム的です。ほとばしるセンチメンタリズムもなかなか。このアルバムでは曲によって小さなホールのロックショーのようにヴォーカルが割れた音で録られているのがとても効果的です。こんな魅力あるヴォーカリスト、feu ジョー・ストラマー以来かもしれません。
 ロックンロール、シャンソン、ラテン、プログレ、映画音楽... アルバムの中で唯一のインスト曲で8曲めの"VERS LE PAYS DES PALMES(やしの国の方へ)”(日本語題でカタカナで「アイスクリーム」と印刷されている)は、まさにフランソワ・ド・ルーベの叙情的な電子系映画音楽のような1分29秒。そのあとの9曲めがニューヨーク、ハーレムの情景を絵画的&映画的に描く6分14秒の「ハーレム」という曲。この流れ、グッと来ます。
 曲はつぶ揃いです。既にYouTubeで公開されている "BOEING(ボーイング)"(7曲め)、"LA MORT DANS LA PINEDE(松林の中の死)”(3曲め)、"LA MALINCHE(マリンチェ)”(10曲め)などで確認してください。みな素晴らしいです。
 で、その詞はどんなふうかと言いますと、私にとってのベストトラックである11曲め "PORTE Z ( Z門 )”を訳してみましょう。
平原と子供たちの合唱
これほど美しいものはない
今日、夜は幕のように落ち
若者たちは行ってしまった

夜は金属シャッターのように落ち
若者たちは行ってしまった
よその平原に
アレルゲン質の自由な空気があると夢見て

そして昼には
夏の色、春の色があった
何千もの飛行機が
空に突き刺さっていった
でも俺たちは

何も怖くなかった

ようやく平原には
耳を聾する叫喚が巻き起こり
激しい怒りが口笛ヤジで張り裂けそうだった
そして若者たちは行ってしまった

青空は汽笛の響きで
ヒビが入りそうだった
そして若者たちは行ってしまった
千人も、平原の真ん中でにわかに形成された
酔いどれの一隊となって

酔いどれの一隊に混じって
彼らは行ってしまった
行ってしまった
行ってしまった

行ってしまったが
にわかに形成された酔いどれの一隊の中で
彼らは迷い
退屈しのぎに大きな薪の山を
平原のど真ん中に
平原のど真ん中に

そして昼には
夏の色、春の色があった
何千もの飛行機が
空に突き刺さっていった
でも俺たちは

何も怖くなかった
       ("PORTE Z") 

 わかります? 青春の終わり、最後の火、何も怖くなった日々にある夕、鉄の幕が降りるというイメージ。こういうランドスケープが見える音楽、ちょっと私今まで聞いたことないですよ。さあ、薪の山に火をくべよう。火を!チャタートン。Feu ! Chatterton.

<<< トラックリスト >>>
1. OPHELIE
2. FOU A LIER
3. LA MORT DANS LA PINEDE
4. LE LONG DU LETHE
5. COTE CONCORDE 
6. LE PONT MARIE
7. BOEING
8. VERS LE PAYS DES PALMES (アイスクリーム)
9. HARLEM
10. LA MALINCHE
11. PORTE Z
12. LES CAMELIAS 

FEU ! CHATTERTON "ICI LE JOUR (A TOUT ENSEVELI)
CD/LP BARCLAY/UNIVERSAL

フランスでのリリース:2015年10月16日

カストール爺の採点:★★★★★

(↓)アルバム "ICI LE JOUR" ティーザー


(↓)ヴィデオクリップ「ボーイング」



 

2015年10月26日月曜日

夜をけえして

Johnny Hallyday "Retiens La Nuit"
ジョニー・ア(ハ)リディ『夜をかえして』
詞:シャルル・アズナヴール
曲:ジョルジュ・ガルヴァレンツ

 1962年制作、オムニバス映画『レ・パリジエンヌ(Les Parisiennes)』は、4人のパリジエンヌのショートストーリーを4人の映画監督が描くというもので、そのうちの第一話「ソフィー」は監督が巨匠マルク・アレグレ、主演カトリーヌ・ドヌーヴ(18歳)です。多感なリセ生ソフィーは、友だち仲間には、もうヴァージンじゃないのよ、恋人がいるのよ、と言いまくっている。半信半疑の女の子たちは、その現場をおさえるべく、夜、ソフィーを密かにつけていく。その実、ソフィーは恋人なんかおらず、その夜は無二の親友のところで過ごしている。なあんだやっぱりウソじゃん、と女の子たちは...。ソフィーは親にばれないように家に帰るために屋根づたいに。その途中、ある窓から貧乏なギタリスト、ジャン・アラール(ジョニー・アリディ。18歳)の姿が見える。恋の始まり。その夜ジャンはソフィーに、この夜をとどめておいて、Retiens la nuit、と歌うのです。

世界の終わりまで
僕たちふたりのこの夜をとどめておいて
僕たちの心のために、落ち着かなくせわしない時だけど
この夜をとどめておいて

きみの体で
僕をつよく抱きしめておくれ
狂おしい時
大恋愛は日が昇るのを止め
僕たちに生きることすら忘れさせてくれるはず

この夜をとどめておいて
きみとならば夜は美しい
この夜をとどめておいて
恋人よ、夜は永遠になる

僕たちのふたつの心の
幸せのために
時を止めておくれ
お願いだから
永遠に
この夜をとどめておいて

聞かないで、僕の悲しみがどこから来るかなんて
何も聞かないで、きみにはわからないことだから

恋と出会って、僕は遭難しそうになっている
この幸せを信じたら、恐怖は喜びの中に消えてしまう

世界の終わりまで
僕たちふたりのこの夜をとどめておいて
僕たちの心のために、落ち着かなくせわしない時だけど
この夜をとどめておいて.....

 さすがアズナヴール/ガルヴァレンツの曲と言うべきか。美しくもパッションもりもりの歌ではありませんか。18歳のドヌーヴ、18歳のアリディ。この夜、忘れるもんですか!
 それにしてもこの日本語題「夜をかえして」はひどい。ちゃんとフランス語読める人なんかいなかったんだな、当時のビクター音産は。しかし日本語でも「夜をかえして」は女性の側からしか言えないセリフでしょ? それも男の裏切りというコンテクストがないと出てきようがないセリフ。かえせと言われてもかえせるもんじゃないですが。ドラマがとたんにまったく別物になる邦題。責任重いと思いますよ。

(↓)映画『レ・パリジエンヌ』(1962年)「ソフィー」篇の断片。ジャン・アラール(ジョニー・アルディ)がソフィー(カトリーヌ・ドヌーヴ)に歌う RETIENS LA NUIT。


PS
(↓)同じ映画から。ジャン・アラール(ジョニー・アリデイ)が夢想する晴れ舞台で歌う "SAM'DI SOIR"(邦題「土曜の夜のツイスト」)。ソフィー(カトリーヌ・ドヌーヴ)がツイストを踊る。うまいツイストです。




2015年10月24日土曜日

Your Love is King

『モン・ロワ』
"Mon Roi"

2014年フランス映画
監督:マイウェン
主演:ヴァンサン・カセル、エマニュエル・ベルコ(2015年カンヌ映画祭・主演女優賞)、ルイ・ギャレル
フランス公開:2015年10月21日

 ずタイトルである「王(roi)」ということを考えてみました。フランスは王がいない国になって150年近くになります。最後の王は第二帝政のナポレオン三世で1871年の第三共和制の成立によって失座しています。それ以来フランス人は王を知らないのです。隣国ベルギー、スペイン、英国、オランダ、ルクセンブルク、モナコ... などと事情が違う。たとえ立憲王制で、議会が国政を司っていても、平民じゃない人をその上に座らせておいている。この得体の知れない存在が王です。それが隣国諸王国では具体的な身体を持った存在です。フランスはそれをもう150年近くも知らないのです。王というのはフランス人にとってもう何ら具体性のない、おとぎ話なのです。絵本の世界なのです。話を日本のことにしますと、2015年の今日、大変な問題であるかの悪法が国会で成立する前に、一部の人々は、常々平和主義的な慈悲深いお言葉を垂れる平成天皇がこの悪法に関してひとこと言えば事態はおおいに変わるはずだ、と天皇発言を真剣に待望していたはずです。権力はなくても「ひとクラス上」のなにかを発揮できるものという漠然とした期待があったのではないでしょうか。
 得体の知れないひとクラス上、今先進国中の王国(日本も含めて)の王はそういうものです。ところがそれを忘れて久しいフランスでは、この「ひとクラス上」の感覚も忘れてしまっているような気がします。人権宣言の国ですから。人間はみんな平等ですから。

 さて前作『ポリス』(2011年)を大絶賛した(拙ブログ記事『警察は一体何をしているんだ』)私ですから、本当に待ちかねていたマイウェンの新作(長編映画第4作め)です。残酷で凄絶な恋愛映画です。2時間胸がキリキリ痛む映画です。
 これは2015年のカンヌ映画祭で初上映され、エマニュエル・ベルコが主演女優賞を受けました。そのベルコは同じ映画祭で監督として『こうべを高く(LA TETE HAUTE)』(拙ブログ記事『こうべを高く』)をオープニング作品として上映していて、2015年カンヌはベルコが目立った年として記憶されそうです。

 世に少ない数でしょうが、イイ男はいます。見栄えも良く、金もあり、ある分野で才能があり、インテリで、ソフトで話術が巧みで、必殺の魅惑視線、そして性が強い。こういう条件が揃えば当然ナルシスティックな男です。みずから「ひとクラス上」感覚が身についちゃっています。この絵に描いたような優男がヴァンサン・カセル演じるところのジョルジオです。風流人で、グルメ通・ワイン通・遊び通(個人プレー/団体プレー両方いけます)です。その上友人たちから信望も厚く、女性たちからはもちろん...。それに対して、トニー(男名前の愛称ですが、女性です。エマニュエル・ベルコ演)はどう見てもフツーっぽいのです。弁護士というハイクラスな仕事をする「できる女」でありながら、どこか花がない。控えめな30代女性として登場します。目立つプレイボーイのジョルジオのことは前から知っていたけれど、ジョルジオがわたしのことを覚えているわけがない、という先入観。ところが覚えているんですよ。「忘れるわけないさ、トニーなんていう名前の女」ー うまいなぁ。このシーンのためにマイウェンはこの名前考えついたのかもしれないですね。
 トニーの弟のソラル(ルイ・ギャレル)とそのフィアンセのベベット(イスリッド・ル・ベスコ = マイウェンの妹)と3人で来ていたナイトクラブでジョルジオと出会った(正確には再会した)その早朝、ジョルジオは3人を自宅に朝食に招待します。ジャガーを乗り回し、100平米のフラットにひとりで住むこの男は、広々としたキッチンで本グルメのプチ・デジュネを用意して出すのです。クール!
 ジョルジオの誘惑の手は早くてスマート。トニーに「また会えるかい?」と誘うやいなや、連絡方法はこれ使ってくれと自分の携帯電話(時代設定が10年前だからスマホではなくて、手のひらにすっぽり入るサイズのずんぐりむっくりケータイ)をポーンと投げ出す。それをトニーは見事にナイスキャッチ。あたかも相手のハートをキャッチしてしまったかのように。 ー マイウェン映画はこれがいかにカッコいいことかを証明するように、その場にいた弟ソラルに同じことをさせるのですが、ソラルがバベットに投げたケータイはキャッチに失敗して地面に落ちてグジャっと壊れてしまうのです。ソラルは自問します「なんであいつにはできて、俺にはできないんだ?」ー それがひとクラス上ということなのです。
 しかしトニーには不安とコンプレックスがあります。このイイ男は私には不釣り合いである。なぜ私のようなフツーの女に接近してくるのか。これは真剣なことではない。しかしあれよあれよと言う間に二人は惹き合い惹かれ合い、初めてベッドを共にすることになります。情熱的な行為のあと(マイウェン映画ならではの直接的でハードコアなダイアローグです)、トニーはこう聞きます「私のあそこガバガバでしょ?」ー これは世の男の「俺のものは小さい」と同じものでしょう。これは象徴的かつ具体的なコンプレックスで、自分は人より良くないんじゃないか、うまくできないんじゃないか、ひとクラス下なのではないか、ということなのです。ジョルジオは「一体誰がそんなこと言ったんだ?」と執拗に問いつめ、トニーが前の男だと告白すると、ジョルジオはその男の極小チンコを笑いものにし、そいつは connard (コナール:スタンダード仏和辞典の訳ではばか者、まぬけ)だと言うのです。

トニー:T'es pas un connard, toi ?(あなたはばかじゃないの?)
ジョルジオ:Non moi je suis le roi, le roi des connards (いいや、俺は王だ、ばか者どもの王様だ)
と、確信的な王様宣言をするのです。これは状況として冗談のように発言されているけれども、実は冗談ではなくなってしまうというのが、この映画の進行です。
 そしてこの最初の愛情交わりの夜に、ジョルジオはトニーに Je t'aime と言ってしまうのです。なんて早い!早すぎる!(言っときますけどね、Je t'aimeは一般に日本の人たちが想っているよりも百倍も千倍も重い言葉なのです。生死をかけて発語しなければならない言葉です。むやみやたらと使ってはいけない。とどめで必殺という機会でないといけない。その代わりそれが外れたら、自死も覚悟しなければならない、そういう言葉なのです。歌の文句のように思われたら困るんです)ー これが王のやり方だというのがだんだんわかってきます。
 二人は愛し合い、最高に幸福な瞬間瞬間があります。これはウソではない。そしてトニーが妊娠します。ジョルジオの喜びようは、茶々懐妊のしらせを受けた秀吉のよう(と言ってもフランス人にはわかるまい)。二人は結婚し、その数ヶ月後には愛し合うパパとママに祝福されてベビーが誕生することになっていた ー と見えるのですが、映画ですから、事件は起こります。ジョルジオの前の恋人だったアニエス(演クリステル・サン=ルイ・オーギュスタン)が自殺を図ります。このアニエスは第一線のマヌカンとして鳴らしたほどの美貌の持主ですが、激しい気性の持主で、4年間ジョルジオとつきあって別れたということになっています。ジョルジオは自死に至るまで心を病んでいたアニエスを放っておけないと、未遂事件後ひんぱんにアニエスを見舞うようになります。トニーは妊娠という大切な時期に、たとえ病んでいるとは言え元恋人のために出かけていくジョルジオに不信感が募って行きます。ジョルジオは「アニエスに会うのはもうこれが最後だから」というウソを連発します。
 俺は誰にも邪魔されずに仕事したい、誰にも邪魔されずに自由に遊びたい、きみも自由でいてほしい、というよくある身勝手な男の「自由尊重」理屈で別居婚を提案し、アパルトマンを用意してトニーと未来の子供を住まわせようとします。
 王国はこうやって徐々に出来上がっていくのです。王が自由に仕事し、自由に遊び、好きな時に妻と子供を愛することができる。トニーはこれを受け入れません。王のルールに従うこと、服従することを拒否してトニーは不幸になります。
 こう書くとジョルジオがマッチョな暴君に変身したように取られるかもしれませんが、映画はそんな単純な描写はしません。理屈はどうあれ、ジョルジオはイイ男であり続け、魅力的であり、トニーを(自分の理屈でという条件つきですが)真剣に愛していて、必死になって繋ぎ止めようとするのです。 この魅力は抗しがたい。だから妊娠後に二人の関係が一直線に冷え込んでいくかというとそうではない。大きな波のように上昇したり下降したりするのです。映画は臨月近い大きなお腹をしたトニー(たぶん特撮なしの生身演技。裸。)とジョルジオの幸福そうな性交シーンまで映し出します。
 ドラマは出産後にも起こります。この男児はジョルジオの発案であるかのように、ジョルジオによって「シンバッド」と命名されます。かの千夜一夜物語の船乗りの名前(日本ではシンドバッドか)です。勇壮でいい名前だろう、とジョルジオはこの名前がことの他お気に入りです。しかし後日、この名前の本当の発案者、つまり名付けの親はあのアニエスであることを知るのです。 ー 私の知らぬところで、勝手に、勝手にシンバッド!

 映画の始まりはその10年後です。10歳になったシンバッドと母親トニーがスキーに出かけ、山の頂上からトニーは(明らかに自殺衝動で)盲目的に直滑降し、膝関節を破壊する大けがを負います。手術のあと、再び正常な歩行ができるように、海辺にある大きなリハビリセンターに入院します。映画はトニーがこのリハビリ訓練を受けながら、痛く、苦しい思いをしている最中にこの10年間を回想する、という形式で展開します。出会い、激愛、諍い〜和解〜より深い諍い〜和解〜よりより深い諍い〜和解...、出産、諍い、離婚... トニーはボロボロなのですが、それはこの王の呪縛から逃れようとすればするほど、地獄に落ちていく、という日々でした。
 ジョルジオはいい父親なのです。シンバッドにとって本当にいいパパなのです。これほど素晴らしい父親は世の中にいるだろうか、というシーンが何度かあります。シンバッドも父親を世界一だと思っているに違いありません。
 リハビリの苦痛の中で、トニーは少しずつ「生への回帰」の希望を取り戻していきます。この時にこのセンターの中で知り合った若者たち(郊外あんちゃんたち。アラブ、ブラック、メティス...)との交流が、マイウェン一流の救いある笑いのシーンとなっています。うまい挿入部です。

 映画の終わりはリハビリが終って、生活に復帰したトニーが、シンバッドの学校から両親呼び出され、担当教師たちとシンバッドのその学期の成績評価などをする面談するシーンです。先に教師たちの前に着いていたトニーと面談が始まった直後に、ジョルジオが入ってきます。改めて教師たちが、シンバッドの評価を二人の前で始めますが、前期に比べてあの点が良くなった、この点が向上した、と良いことずくめ。それを涙も流さんばかりに感動&満足して聞いているジョルジオを、トニーはじっと見つめています。そういう終り方です。

 この王は良い王に違いない。そう思わせますが、王を認めてしまったら私はどうなるのか。その地獄の繰り返しの果てに、トニーはやはりふっと柔和な視線でジョルジオを見てしまう。女性たちのご意見を聞きたいです。私はこの「ひとクラス上」は認めてはならないのだ、という意見です。魅力と権威に服従してはならない。飛躍と思われましょうが、政治的な意味においてもこれは認めてはなりません。 しかし...。しかしが残る映画です。すばらしいと思います。

カストール爺の採点:★★★★★

(↓)『モン・ロワ』予告編


2015年10月18日日曜日

マラルメわかるめぇ

Bertrand Belin "Cap Waller"
ベルトラン・ブラン『ウォーラー岬』


 Cap Wallerは架空の地名です。だからフランス語風に「ヴァレール岬」としたっていいんです。ところが、このアルバムだけでなくベルトラン・ブランの場合はなぜか英語読み風に「ウォーラー」とした方がいいような気がします。ブランがデビュー以来醸し出している一流のダンディズムのゆえでしょう。ダンディズムと言えば英国、というもろ直の連想ですね。しかも青空で晴れ渡った岬など考えもつかない、どんより曇ったり、風雨にさらされたり、濃霧で灯台の明りさえかすかにしか見えなかったり、そういう岬を想うのですよ。北の岬ならみんなそうでしょうけど、英国のあのダークさがしっくり来ます。そして、このジャケットアートです。1920年代、バウハウス派のコンポジションのような、あるいは三越百貨店の包装紙のようなデザインですけど、連合王国国旗のユニオンジャックの3色にも近く見えませんか?(見えないか...)。アルバムの録音地は内陸なので岬はありませんが、イングランドのシェフィールドです。
 ベルトラン・ブランは1970年、ブルターニュ地方モルビアン県のキブロンの生れです。イワシ漁で有名な漁港があり、オイルサーディンの缶詰が名物で、キブロン半島にはもちろん岬もありますわね。とりわけブルターニュ色を出しているアーチストではありませんが、キブロンと聞いてとても納得がいく佇まいの人、と私は勝手に思っています。
 ミュージシャンとしてはかなり変わった経歴で、まずケイジャン〜ザディゴのバンド、ストンピン・クローフィッシュ Stompin' Crawfishのギタリストとして6年間、2枚のアルバムに参加しています。それからフランスに移住してきたイギリスのバンド、サンズ・オブ・ザ・デザート Sons of the Desert に1996年のアルバムからギタリスト/バンジョーイストとして参加。フランスのアーチストでは元VRPのネリーベナバール、オリヴィア・ルイーズ、ディオニゾスなどと交流があり、曲を提供したり、ギタリストとしてアルバムに参加したりという...。2005年にデビューアルバム『ベルトラン・ブラン』。指弾きグレッチ(ギター)の音と艶のあるクルーナー・ヴォーカル(このスタイルは今日まで変わらない)。このデビューアルバムの時、私、結構ひとりで騒いで応援して、在庫かかえて当時持っていた通信販売のページにデカデカと張り出して売ろうとしていましたが、2015年の今日、まだ在庫あります。
 この人が世に知られるようになるのは3枚目のアルバム『イペルニュイ(Hypernuit)』 (2010年)からなのです。"hypernuit"はブランの造語ですが、「hyper-」は「超、過」の意味を付加する接頭辞ですから、それがついた「nuit (夜)」とは「超スーパーな夜」「ウルトラすぎた夜」、一生に一度体験できるかどうかわからないような超稀で超例外的な夜というニュアンスになりましょうか。歌は男が村中を復讐するためにやってきた夜、という緊急ながら漠然としたイメージを、くりかえし、くりかえし、ぶつぶつ唱えるようなクルーナー唱法で展開します。象徴的で印象的で高踏的な、ある種ゲージツ的フランスが香るわからなそうでわかる、わかりそうでわっかない、そういう歌です。好きな人たちが飛びついても不思議はありません。
 こういう「あんたらにはわかるめぇよ」型のダンディズムにとかく私たちは弱いのです。

アルバム『ウォーラー岬』はその延長線上の5枚目のアルバムです。このアルバムの数ヶ月前の2015年3月、ベルトラン・ブランの小説『鮫 (Requin)』が刊行されたのです。これは人工貯水池で水泳パンツ姿で自殺する男(40代。妻子あり)のいまわの際の回想を一人称文体で書いたものです。なぜ死ぬのかはなぜ生きるのかと同じほどに明らかでない理由がたくさんあり、ニヒルで時折ユーモラスでもある展開は、ブランの音楽を大きく引き延ばしたようなアートです。湖で飢えをしのぐために白鳥を殺して焼いて食べるシーン、ディエップの港の水中に隠されていた多数の牛乳パックを発見して宝物のように引き揚げるシーン、こういう具体的な描写が効果的で、観念的な厭世小説からずいぶんと距離のある作品に仕上がっているのですが、この黒々とした文章は硬派の文芸批評メディアでも高く評価されたのでした。こうしてブランは、2015年の今日、文学と音楽の両分野で小難しい鬼才の地位を獲得していて、しかもとても重要な存在のような重さと後光を示し始めたのですね。まだまだ死後のゲンズブールや晩年のバシュングには至りませんが。
 アルバム『ウォーラー岬』はいつもに増してミニマルなアルバムです。歌詞もインストも繰り返しが多用されて、ヤマやCメロなんかほとんどない。短い数行詞を繰り返しで引き延ばして歌われる曲が3曲。これを国営ラジオ局フランス・アンテールのジャーナリスト、レベッカ・マンゾーニは「俳句」と称したのでした。 例えば
その日ぐらし
巨大な都市の中
ある広場
僕はきみの背中をみつける
僕はきみの背中を覚えている
馬の群れ
噴水
きみは振り向く
するとそれはきみではなかった
こんな場面にもう何回も出くわした
  (9曲め "Au jour le jour")
たったこれだけで、おもむろに都市的な寂寥で肌寒くなる、というメランコリーが体験できるわけです。俳句にしては長すぎると思われましょうが。
11曲め( アルバム終曲)の「兵隊」は4行です。
僕らがさっきまで
遊んでいた木
どこに行ったんだ?
僕は何をすればいい、兵隊さん?
(11曲め "Soldat") 
この4行を何度か繰り返しながら、スローでメランコリックなインストで引き延ばされて5分20秒かかる曲です。子供の日の悲しみが夕暮れのようにゆっくり色を帯びていくのを感じてくれればいいんです。
そしてアルバム先行でこの夏からFMでオンエアされていて耳になじんでいた2曲めの「フォル・フォル・フォル」は7行詞です。
狂った狂った狂ったような雨に打たれ
シルエットは戻って来る

ふたつの泥の水たまりの間をスラロームして
シルエットはひとりの人間に気がついて
手で合図する
狂った狂った狂ったような雨に打たれ
(2曲め "Folle Folle Folle" )
性別も関係もわからぬひとつの影とひとりの人間、土砂降りの雨に打たれながら、ひとつの手が動く、それだけのこと。どれだけのドラマがそこに秘められているかは、想像する者の自由。馬鹿げた、馬鹿げた、馬鹿げたことかもしれません。 そのふっと浮かび上がる印象がこの歌のいのちでしょう。

 このように俳句的で、無説明なコラージュと魅惑のクルーナー・ヴォイスとミニマルインストが合体したアルバムです。フランス人でさえ歌詞カード見ても何を歌っているのかわからないような不明瞭な発音の低音ささやきヴォーカルは、女性にも男性にも、われわれが日本語で言うところの「そそる」ものがあるはずです。これを高踏すぎて、頭でっかちでわからん、という人たちも少なくないでしょう。誰にも真似のできないベルトラン・ブランのスタイルというのは3枚のアルバムで形骸化してしまった、自分にしかわからない歌ばかりという閉鎖性をテレラマ誌ヴァレリー・ルウー(とロプス誌&レクスプレス誌のシャンソン評論家)の10月12日の座談会は批判しています。 まあ、一度では無理かもしれないけれど何度が聞いたら、これが全部同じように聞こえるとか、単調でアクセントに欠けるとか、そういうことは絶対に言えなくなるスルメ味がわかるはずですけど。

<<< トラックリスト >>>
1. QUE TU DIS
2. FOLLE FOLLE FOLLE
3. DOUVES
4. JE PARLE EN FOU
5. ALTESSE
6. L'AJOURNEMENT
7. LE MOT JUSTE
8. D'UNE DUNE
9. AU JOUR LE JOUR
10. ENTRE LES IFS
11. SOLDAT

BERTRAND BELIN "CAP WALLER"
CD/LP  WAGRAM/CINQ7 
フランスでのリリース:2015年10月

カストール爺の採点:★★★★★ 

(↓)アルバム"CAP WALLER"オフィシャルティーザー。


(↓)"FOLLE FOLLE FOLLE" オフィシャルクリップ。


(↓)"JE PARLE EN FOU" オフィシャルクリップ。