2014年12月17日水曜日

爺ブログ のレトロスペクティヴ 2014

  2014年が終ろうとしています。

 手前味噌です。ブログ『カストール爺の生活と意見』は今年40余りの記事をアップしましたが、7年目にして、こんなに充実した記事で埋まったのは初めてである、という自覚があります。いただいたメールやコメントも手応え十分で、このブログを続けてきてよかった、としみじみ思っている年の瀬です。ありがとうございました。この手応えに感謝すべく、このブログ始まって以来初めての年間レトロスペクティヴを作ってみました。
 言わば爺ブログの年間記事のベスト10です。順位は純粋にページビュー数の多さに拠っています。今年掲載された40の記事から10をセレクトするわけですから、確率は4分の1という倍率低めのベストテンです。この順位で読者の皆さんに愛されたことはとても納得のいくものです。小さな世界ですよ。なにしろこの上位10位のページビュー数は600から300の間ですから。これからもこの規模の親密さで、文学・音楽・映画の私的体験をみなさんと共有できたら、と願っています。 Joyeuses Fêtes à tous !


1. 生まれてきてすみませんと言う男(2014年5月21日掲載)
当年85歳のミラン・クンデラの11年ぶりの新作小説『くだらなさの宴 (La fête de l'insignifiance)』 の紹介記事です。日本でいかにクンデラ小説愛好者が多いかを物語っています。私が上っ面をラフになぞっただけで、これだけ盛り沢山な記事になりました。早く邦訳が出て、多くの人たちがこの名人芸を堪能して欲しいと願ってやみません。



2. 渇いていた男(2014年3月16日掲載)
 これは意外。ユベール・マンガレリの小説『渇いていた男
(L'homme qui avait soif)』です。戦後の荒廃した日本が舞台で、太平洋戦争の玉砕戦(ベリリュー島)の生存帰還者が、災難と奇妙な出会いを繰り返しながら、花巻から許婚者のいる北海道まで至るロードムーヴィー形式の物語。無口で暗くて不条理な道中。私は知りませんでしたが、日本では知られている作家のようです(翻訳3冊あり)。



 3. Zou! 真っ青やサウンド・システム (2014年10月26日掲載)
マッシリア・サウンド・システムの30周年記念アルバムで、オリジナルスタジオアルバムとしても7年ぶり。応援していますし、個人的にも厚い交友関係のあるバンドです。アルバムは日本盤も出ました。中央に楯突く地方の中高年のパワー。日本の地方の人たちにも刺激になってほしいです。東京がすべてを決めている日本、おかしいと思う人たちはマッシリアを聞いてください。




4. クロ・ペルガグの奇天烈な世界・1 (2014年3月18日掲載)
  今年の上半期は このケベック出身のお嬢さんに破格の賛辞を送っていて、この『クロ・ペルガグの奇天烈な世界』という記事は「」「」「」と続きました。おかげでフランスでも日本でも評価はどんどん高くなっていってます。私はと言えば、根が浮気なので、2014年の下半期はクリスティーヌ&ザ・クイーンズがクロ・ペルガグの地位を奪ってしまいました。

5.四季四季バンバン(2014年6月22日掲載)
 これも意外。アメリカ映画なんてめったに紹介しないブログですから。クリント・イーストウッド監督の映画『ジャージー・ボーイズ』 (ザ・フォー・シーズンズのバイオピック)はフランス封切が本国アメリカよりも早かった。日本はそれより3ヶ月以上遅れての9月27日公開。この3ヶ月間に日本のファンのためにこの爺ブログ記事がスジばれを含む好意的なプロモーションをしてしまった、ということなのでしょう。ジャック・ドミー仕立ての任侠映画みたいなところが好きでした。

6. 旅立てジャック(2014年2月1日掲載)
 ディオニゾスのリーダー、マチアス・マルジウの小説『時計じかけの心臓』(2007年)を原作に、リュック・ベッソンが資金を出して、マチアス・マルジウとステファヌ・ペルラが5年がかりでCGアニメ映画にした『ジャックと時計じかけの心臓(Jack et la mécanique du coeur)』の記事。爺ブログでは小説CDアルバムも2008年1月に紹介していて、その反応から日本に潜在的なディオニゾス愛好者たちがいることを知りました。先端のCGアニメ映画だと思うのですが、純粋に子供たち向けではないので、リュック・ベッソン印がついていても日本公開の予定はありません。


7. フランスに捧げるサンバ(2014年8月18日掲載)
 フランスではたいへんな鳴り物入りで10月に公開されたエリック・トレダノ&オリヴィエ・ナカッシュ監督の新作映画『サンバ』(日本公開2014年12月26日)の原作小説『フランスに捧げるサンバ(Samba pour la France)』(著者デルフィーヌ・クーラン)の紹介記事。南北問題、貧困、移民、アイデンティティーといった主題を、現場からの視線(著者はサンパピエ支援団体のボランティア)から描いたまっすぐで熱い「社会小説」。これが(『最強のふたり』のような)大衆娯楽映画の原作になりうるのか、という疑問はありました。映画『サンバ』に期待していたでしょう日本の人たちから多くのアクセスがありましたが。

8. 空港とホテルとスズメ(2014年6月9日掲載)
詩的という意味では私にとって最も響いた映画、パスカル・フェラン監督の『バード・ピープル (Bird people)』。ウーエルベック主演の『ニア・デス・エクペリエンス』 や、トレダノ&ナカッシュの『サンバ』など「バーンナウト症候群」を題材にした映画は多くなりましたが、われわれはそんなんじゃない、もともとから鳥になりたいんだ、ということを思い出させてくれる作品。幼くも年老いてからも、夢の中で自力で空を飛んだことがない人っているのでしょうか。映画のマジックはそれをちゃんと映像化してくれるんです。1982年から3年間CDG空港で仕事してました。仕事は全く面白いものではなかったけれど、毎朝空港に行くのが好きだった。そういう記憶って何だったのか、この映画ではっきりしました。

9. パリの日本人にとって"パリ的”なるもの(2014年2月9日掲載)
 パリの日本語新聞オヴニーの代表者、小沢君江さんの本『四十年パリに生きる』の書評を雑誌記事に書いたときの補足のようにブログに書き留めたものです。長くフランスに住む日本人として小沢さんと私は共有する同じ歴史が多くあります。「二つの文化の狭間で」みたいなお題目はどうでもいいと私は思っています。興味深いのは小沢さんしか体験できなかった個人史の部分で、夫のこと、子供たちのこと、育てた会社のこと、日本語で書き続けるということ、私にとっては濃いものばかりでした。


10.  記憶の取る捨てる(トルステル) (2014年10月25日掲載)
 この最低な記事タイトルにも関わらず、多くの人たちが読んでくれました。10月にノーベル文学賞を受賞したパトリック・モディアノの最新小説『おまえが迷子にならないように(Pour que tu ne te perdes pas dans le quartier)』の紹介でした。いつものように記憶の濃霧の中を手探りで進んでいくようなモディアノ節です。記憶といういい加減なもの、何を書いてあるのか自分でも読み取れないようなメモ書き、地下鉄駅改装工事で偶然露になる数十年前の広告、モディアノ読みはこの不安な再会/再発見に心を揺さぶられるのです。忘れていないものは不安なことばかり。

2014年12月14日日曜日

神々の砂漠

  "Timbuktu"
『ティンブクトゥ』


2014年モーリタニア+フランス合作映画

監督:アブデラマン・シサコ
主演:イブラヒム・アハメド、トゥールー・キキ、アベル・ジャフリ
2014年カンヌ映画祭出品作(コンペティション)

フランス公開:2014年12月10日

2014年の今日、西側にいる私たち(私の現在位置はフランス)の多くは、もう善悪が歴然としている、と思っていますよね。「イスラム国」兵士による人質の斬首が一度ならずSNSで公開されるや、私たちは人道に対する犯罪を確信し、ジハード派が人類全体の敵であるかのようなメディア報道に同調する怒りも感じたはずです。フランスの少なからぬ数の若者たちが、このジハード兵士として参戦するべくシリアに飛んでいる。日本人活動家もいると報道されている。強大な武装力とテクノロジーとコミュニケーション網を有する、これまでに例を見ない規模のテロリスム機構の伸張は私たちの大きな脅威であるということに私は異論がありません。
 この映画はジハード派の脅威を検証するものではありません。実際に起こった衝撃的な事件をハリウッド映画的にドラマティックに脚色して描き出すような作品では全くありません。この映画のもとになった史実は、2012年春、マリの北半分が武力的にジハード派に制圧され、その中にユネスコ世界遺産に指定されている歴史的古都トンブクトゥーもあり、ジハード派はトンブクツゥーの聖墓・聖廟を破壊し、古文書を焼き払いました。そして住民はジハード派解釈によるイスラム法「シャリーア」の徹底尊守が義務づけられ、女性は肌を露出することが禁止され、あらゆる享楽が制限され、禁を破った者は、公開処刑で鞭打ち刑、石打ち刑、手足の切断刑などに処されます。
 アブデラマン・シサコ監督の映画は初めて観ました。私たちはこれから始まるであろう戦争とテロリズムの悲劇に身構えて映画館に入ったわけですが、最初から何かアングルが違うな、と直感しました。ジハード兵士たちが、砂漠でトヨタの四駆ピックアップを走らせ、その荷台から射撃訓練として一匹のガゼルを追います。ガゼルは全速力で逃げていきますが、兵士たちはわざとそれに銃弾が当たらないように発砲します。「疲れさせろ!」と声は命じます。ガゼルはそれる弾丸に怯えながら、必死に逃走します。これは残酷なことなのか、「人道的」なのか、私には判断できません。続いて、同じく射撃訓練で、たくさんの民芸品の木彫り人形(戦争前まではトンブクトゥーは観光名所でしたし、こういう木彫り人形が多く土産屋などで売られていたでしょう)が標的になっていて、その顔や胴体などをおびただしい弾丸が破壊していきます。これも残酷なのか、無邪気な遊びなのか、あるいは偶像や伝統破壊のメタファーなのか、ちょっと判断が難しいところがあります。こういう単純ではない映像と対照的に、その背景となる砂漠もサバンナも村の家々もトゥアレグたちの野営テントも、すべて絵画的に美しいアフリカなのです。これはため息がもれるほど見せる絵で、この前で一体何が問題なのかわからなくなりそうです。
 たしかにこの村をジハード派が制圧し、あれもこれも禁止され、恐怖政治が布かれますが、それを武力的に管理するジハード兵士たちは、私たちがニュース報道などから想像するような徹底的に洗脳された狂信者たちではなく、どこかに不安や迷いもあるような描かれ方なのです。これがカンヌ映画祭でコンペティション作品として上映された際に、テロリストに対して同情的にすぎるのではないか、という否定的な評価の所以でした。例えば(下に貼った予告編でも見れるシーンですが)、女たちに対する肌の露出を禁止する命令によって手袋の着用も義務づけられるのですが、魚売りの女が一体どうやって手袋の手で魚売りの仕事ができるのか、とそれを拒否して、ジハード警察に喰ってかかります。「私の手を斬ってくれ!」と包丁まで差し出します。これに対してジハード兵士たちは、高圧的暴力的にこの女を取り押さえるのではなく、女をなだめることすら試みるのです(しまいには女を連行していきますが)。また、フットボールを禁止しておきながら、ジハード兵同士ではフットボール談義が始まると止まらなくなってしまう。はたまた、音楽を禁止しておきながら、夜警中にある民家から音楽の音が聞こえてきても、よく聞くとそれはアッラーを賛美する歌であるという理由で、ジハード兵は踏み込んでの現行犯逮捕を思いとどまってしまう、というシーンもあります。
 しかし自由は奪われ、多くの人たちはジハードの勢力が届いていないところまで逃げてしまい、村は荒れています。小さな抵抗は試みられますが、それには残酷な刑罰が待っています。そんな中で、この映画で最も美しいシーンとされるのが、村の少年たちがボールなしでフットボールの試合をする場面です。「エアー・サッカー」とでも言うのでしょうか。少年たちは見えない想像上のボールを追い、ドリブルし、タックルし、パスし、シュートしてゴールを決めるのです。その瞬間の集団での大喜び。この自由は誰にも奪うことはできない、という勝利の瞬間のように感動的です。
 自分のやっていることに疑いを持ち始めるジハード、禁止されたタバコを隠れて吸うジハード、村の娘に恋をするが果たせず、その支配的権力を使ってでも恋を成就させようとするジハード...。
 映画の主軸のストーリーは、この村の外側にテントを張って住んでいるトゥアレグの三人家族の運命です。父と母と10歳の娘。行商と牛の放牧で、貧しくも平和に暮らしているこの三人のところにも、ジハード軍の支配の影響は及んで、他に住んでいたトゥアレグたちはすべて逃げていきました。それでも母と娘は、ジハード兵がやってきても顔や肌を隠すことなく誇り高く生きていました。父はギターをつま弾き「砂漠のブルース」を歌います。本物です。この三人は他の世界がどんなになろうが、この幸せの恩寵に包まれて生きていけそうに見えました。歴史や世界事情に取り残されて、という意味ではありません。三人は携帯電話でコミュニケーションし、その飼っている一番自慢の牛は「GPS」という名前が付けられているほど、21世紀とシンクロして生きているトゥアレグなのです。
 ところが、近くに住む川魚漁師が、その自慢の牛の「GPS」を殺してしまうという事件が起こり、トゥアレグはそれを抗議に行ったところ、漁師と取っ組み合いの喧嘩になり、たまたま持ち合わせていたピストルが暴発し、漁師は死んでしまいます(この川の上での格闘の末、漁師が画面の右端で息絶え、トゥアレグが川水に足を取られながら画面の左端に逃げていく、ロングショットの映像、思わず息を飲むほど美しい)。
 この事件で逮捕されたトゥアレグが、ジハード派のシャリーア裁判で死刑を宣告されるのです。この取り調べと裁判の間中、トゥアレグとジハード派の複数の人間たちの間で問われるのが「神」の問題なのです。同じひとつの「神」と信じられてきたものをトゥアレグはもう一度この人たちにも問うのです。神は裁くものなのか。
 ジハード派はこの地平では揺らぐことがない(たとえこの映画でいくつもジハードの揺らぎは見て取れるものがあったとしても)。しかし、その刑の執行の時に...。

 不思議な登場人物がこの映画の中に3人います。2010年ハイチ大地震の生存者(とおぼしき)でマリに流れ着いたクレオールで、ボロを纏いインテリ風フランス語を話す狂女。もちろん顔や肌など隠すことなく、ジハード軍のトヨタ四駆の前に立ちはだかり、その通行を邪魔したり罵りの言葉を浴びせることもするのだけれど、ジハード兵たちはこの狂女には一切手を出さず放任しています。そしてこの狂女と仲がいいのか気になるのか、芸術的か哲学的な過去を持っていたと思わせる白人系ジハード幹部、この男が突然に狂女の前でコンテンポラリー・ダンスを披露するのです。3人めは派手なマントを翻して暴走する謎のオートバイ乗り。この映画ではこの3人めが古代ギリシャ悲劇で言うところの「デウス・エクス・マキーナ」です。
 テロリズムの惨劇にポエジーを持ち出していいのか、という見方もありましょう。私にはよくわかりません。神の問題への私の意見はありません。私は神の問題よりも、この映画のポエジー=想像力が、この人間と大地(アフリカ)との関わりを繊細に描いていたことに深く感動するものです。世界政治・宗教問題・人道問題のことだけでは、映画なんか作らなくてもいいのです。アフリカやわれわれを深く支えているのは、この映画のような光ある想像力(トゥアレグの三人家族)である、と私が結論しても、私はそんなに陳腐なことを言ってるとは思いませんよ。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『ティンブクトゥ』予告編

(↓)挿入歌「ティンブクトゥ・ファソ」作曲:アミン・ブーハファ、作詞&歌:ファトゥーマタ・ジャワラ

2014年12月12日金曜日

僕になついちゃった猫

多分、少なからぬ数のフランス人と同じように、私はこの歌をフランス国営ラジオ局FIPで耳にし、耳から離れなくなったのでしょう。21世紀のこの世の中だから、気に入った曲ならば、ラジオ局に問い合わせたり、そのインターネットサイトで情報を得て、CDを手に入れることもMP3でダウンロードすることもできると軽く見ていたんですね。ところが見つけるのは大変でした。CDはもう廃盤になっていました。私は熱心なコレクターではないので、ラジオその他で耳にした音楽で、大好きで大好きで絶対に媒体(レコード、CD、カセット、MP3...)で手にしてやろうと思っても、手に入らなければ、簡単に諦めて、記憶の中のメロディーとしてしばらくとどめておいて、やがて忘れてしまう、という曲がずいぶん多くあったと思います。この歌もそのひとつのはずだったんですが、私は救済しましたよ。
 ジャック・ドミー映画の一シーンのような男女かけあいのデュエットでした。音符がたくさんあって歌いづらそうなワルツ曲でした。美しいフランス語でした。今日も明日もわからないのに、愛し合っている男女の歌でした(アズナヴール「ラ・ボエーム」の伝統を思わせました)。シャンソンっていいなぁ、と思いました。こういう歌が人知れず生まれては消えていく。私は記録したいなぁ、と思ったのです。私のブログというのは、少しは役に立っていると、思える瞬間があります。

(男女)今日も明日も
    この地球上で僕のものなど何もないんだ
    僕の手の運命線や生命線がきみの手のそれを混じり合うよ
(女)あなたは優しいけれど冷めちゃってる
(男)僕はきみを拒むすべを知らない
(男女)僕たちはすべてを分かち合っている。クロワッサンも、問題も、お金も、カフェ・クレームも。

(男女)僕にとってきみ以外のものなんか何も興味がないってことを
    きみはよく知ってる、ってことを僕は知ってる
    あまり遠くに行かないで
    僕の心臓はきみの心臓なしには鼓動しなくなってしまうんだから
    恋人よ、きみは僕になついちゃった猫
    羽根をやすめようとしていたチョウチョ
    僕が調和させたばかりのメロディー

(男)きみは水のほとりにいて、無造作に裸で横たわっている
   背中の下の方に見えるそそるような窪みが
   僕の頭をかき乱す
(女)あなたは頭の中で歌が生れそうになると、あわてて調子っぱずれの口笛を吹く
   あなたは目覚めたまま夢を見て、数々の浮き島を訪れてまわる
(男女)思いの中で自分を見失い
    タンポポの花をもぐもぐ咬みながら
    きみは僕たちのベッドの上で雲が流れていくのを見つめている
    恋人よ、きみは僕になついちゃった猫
    僕たちの視線が交わった時から
    すべてはとてもシンプルで、なんでも即興でできちゃう

(男)きみはすばやく動く美しさ、反り身になっても目の端で僕を見つめるんだ
   きみは新米のスターレットのように、僕を虜にするすべを知っている
(女)あなたは私にそれを語らずに、9月になったらパリから出て行こうと思っている
   あなたは目覚めながら夢を見て、流れ星と普通の星を見分けている

(男女) 今日も明日も
    この地球上で僕のものなど何もないんだ
    僕の手の運命線や生命線がきみの手のそれを混じり合うよ
    恋人よ、きみは僕になついちゃった猫
    羽根を休めようとしていたチョウチョ 
    僕がきみの唇の上にキスを軟着陸させようとしたように

 この数年で聞いた最も美しいシャンソンの一曲です。このYouTubeがなくならないうちに、たくさんの人たちに聞いてほしくて、わがブログにシェアします。

カミーユ・クトー(Camille Couteau)作詞作曲・歌
「僕になついちゃった猫」(Un chat que j'ai apprivoisé)



    
   

2014年12月9日火曜日

ノー・ウーマン、ノー・クライ

リディー・サルヴェール『泣かないで』
Lydie Salvayre "Pas Pleurer"


2014年度ゴンクール賞作品

 ←表紙カヴァーつき(下)となし(上)の2種類が本屋さんに並んでいます。2014年8月に出版された本ですが、11月にフランス文学賞の最高峰ゴンクール賞を受賞して、このように赤い腰巻きがつくようになりました。私の印象では下の黒いベレー帽(スペイン革命の象徴のひとつ)を被った鋭い眼光の少女の半顔というイメージは、小説の全体を誤って単純化しているようで、感心しません。駅キオスク売りのスパイ小説、いわゆる「ロマン・ド・ガール(駅小説)」(日本では英語表現にならって"エアポート・ノヴェル"と呼んでいるようですが)のチープさも匂ってきて残念ですね。
 さて、女性の年齢のことを言うのはエレガントさに欠けることとは知りながら書きますと、このリディー・サルヴェールは当年66歳(1948年生れ)で、作家として1990年代から20編をこえる作品があり、1997年に小説『幽霊師団(La Compagnie des Spectres)』で「11月賞」(アンチ・ゴンクールを標榜した1989年創設の文学賞で、 現在は「12月賞」に名称が代わっている。因みにサルヴェール受賞の翌年1998年にミッシェル・ウーエルベック『素粒子』がこの賞を取っている)を受賞していて、キャリアも貫禄も評価も十分な安定した地位にあります。私たちにちょっと縁の近い分野では、ノワール・デジールのセルジュ・テッソ=ゲー(g)とジャン=ポール・ロワ(b)と共演した朗読CD "Dis pas ça"(2006年)というのもありました。 しかし、新しい才能やこれまで賞を取っていない作家たちに与えられるのが通例のように思われていたゴンクール賞にしては、サルヴェール受賞は異例、意外、驚き、といったメディアの反応が多いのです。それはそれ。年寄りが取ったって、いいじゃないか、で済ませましょう。
 小説は、話者(私。名はリディア)の母親(名はモンセラット。愛称モンツェ)が語るスペイン戦争の頃の体験をクロノロジー的に綴ったものです。時は1936年、舞台はスペイン(カタロニア)の小さな村。スペイン戦争は、人民戦線政府に対して蜂起したナショナリスト反乱軍との1936年から3年にわたって戦われた内戦であり、70万もの死者を出しながら、フランシスコ・フランコ(1892-1975)率いるナショナリスト軍が共和国軍を破って全権を掌握して独裁政治が始まる、というおぞましい結末があります。
 小説の中でこの戦争を証言するのは二人で、この二人は場所も立場も違うところでそれを体験するのですが、出会うことも交信することもない他人です。ひとりは前述のモンツェで、この時15歳の少女です。もうひとりはフランス人作家ジョルジュ・ベルナノス(1888-1948)です。厳格なカトリック信者にして、王党派極右運動であるアクシオン・フランセーズを支持して、反共主義の論陣を張っていた作家です。代表作に『悪魔の太陽の下に』(1926年)、『田舎司祭の日記』(1936年)などがあり、日本でもほとんどの著作が邦訳されています。そのベルナノスが1936年にマジョルカ島に滞在していた時に、この内戦が勃発し、ナショナリスト軍に制圧された島で、夥しい数の人々が(理由もなく/裁判もなく)ところ構わず銃殺刑になっていくさまを目撃するのです。当時のスペインのナショナリスト側のボキャブラリーではこの殺される人たちは「悪い貧乏人」と呼ばれます。すなわち社会主義や共産主義に洗脳され、世の秩序と「神」の秩序を乱す人々と見なされたわけです。ベルナノスはこの地獄のような民衆虐殺劇の連続をローマ法王庁が認めるばかりか、法王がフランコ軍を祝福し、宗教的なバックアップまで買って出たことに底なしの幻滅と絶望を覚えてしまいます。それまで極右を支持し、息子のナショナリスト軍・ファランヘ党への参加をたいへんな誇りにしていたフランス人カトリック作家は、マジョルカ島で実際見たもののために180度の思考転回をよぎなくされ、意を決してこの民衆虐殺を告発する文章を発表し始めるのです。この惨劇を小説化した作品が『月下の大墓地』(1936年)です。つまりベルナノスはこのスペイン戦争にこの世の地獄を見たわけです。
 しかし、この小説の真正な主人公である15歳の少女モンツェは、カタロニアの田舎に突然実現してしまったコミューン的ユートピアに夢のようなひと夏(1936年7月)を体験するのです。何世紀も前から貧乏に生まれて死ぬことを運命づけられた農家にあって、父母は物を言わずに生きることを美徳として子供たちを育てようとしましたが、ある日、モンツェの兄のホセは町に出て帰ってきたらすっかり変わってしまいます。無学だった兄はその町での数日間で、無政府主義(バクーニン主義)に染まってしまったのです。 これは(例として適当かどうかわかりませんが)ロックンロールとの出会いと同じように強烈で乱暴でクレイジーなのです。貧農の長男で不良のボス格だったホセは、その覚えたての革命家気取りの演説で、彼の周りに若いアナーキストグループを組織します。両親に反抗し、古い世の中に楯突く兄をモンツェはまぶしく見ています。
 この夏モンツェは村の大地主の家に女中として雇われることになっていました。この大地主には養子として入った跡取り息子ディエゴがいます。20歳のディエゴは高等教育を受けたインテリで思慮深い男ですが、出自の事情から親に対して反抗的で、共産党に入党します。このディエゴは子供の頃からずっとモンツェに片思いしていると同時に、その兄のホセとはガキの時分から犬猿の仲、より正確にはホセの徹底したイジメの対象になっていて、ディエゴはずっとそのイジメを耐えて受け入れていたのです。小説はこの二人の対照的な若者、貧農の子/富豪の子、乱暴者/インテリ、過激派/穏健派、ロマンティスト/リアリスト、アナーキスト/コミュニスト等々の対立も大きな軸になっているわけですが、しまいには(これはバラしたらいけないんですけど)この二人に深い友情のつながりがあることを知ります。
 さてモンツェは女中に雇われるというその時に、人民戦線(共産主義、社会主義、無政府主義を結集した共和国派共闘)指導による革命の波がこの村にもやってきて、 土地・財産を含む村の村民による自主管理が、直接民主主義によって討議され始めたのです。15歳の少女は突然やってきた革命に狂喜し、村を一歩も出たことがなかった若者たちと徒党を組んでカタロニアの都バルセロナまで赴き、革命の躍動に共振する都の空気を満喫します。それは初めてのタバコ、初めてのアルコール、止むことのない歌と踊りとディスカッション、若者たちから次々に発語される新しいスローガンや詩...。そしてこの狂気の夏にモンツェは初めての恋も体験します。その若者はアンドレと名乗るフランス人で詩人なのです。彼はフランコのナショナリスト軍と戦うために国際義勇軍のひとりとしてフランスからやってきた。そして翌朝に前線に出発するという夜にモンツェと出会い、詩人と少女は激しい恋に落ち、一晩中愛し合ったのです。そして決められたように翌朝詩人は姿を消すのですが、その数週間後、モンツェはアンドレの子を身籠ったことを知ります。
 一方村の人民評議会は、最初ホセたち過激派の提案に賛成して、地主制の廃止、私有財産の没収と分配など急速なコミューン化を打ち出すのですが、徐々に前線の状況があやしくなり、ディエゴの穏健派が「なによりもまずフランコとの戦争に勝つこと、大きな改革はそのあとで」という現実主義路線を提唱、多数派の賛成を得て、ディエゴが仮の村長となり村行政を切り盛りするようになります。ホセは当然面白くないわけですが、フランコのナショナリスト軍は共和国をじりじりと侵食していき、頼りにしていたソ連からの武器はなかなか届かず、共和派の中でも共産主義者、社会主義者、無政府主義者の内部対立が深まっていきます。
 村に戻ったモンツェは妊娠してしまった子供をどうするか悩みに悩み、蒸発することまで考えます。件のフランス人詩人アンドレが再び目の前に現れてくれることを夢見たりもしますが、全く可能性はありません(後日談としてこの詩人はひょっとしてアンドレ・マルローではないか、とモンツェと生まれてきた子供が想像しています)。しかし女の問題は女が最もよく知っていて、モンツェの母親がうまく手を回して、子供の頃からモンツェに恋い焦がれていたディエゴと結婚させることにしたのです。ホセはこのアレンジメントにあたかも政治的権謀術数のごとき卑劣さを見てしまい、モンツェとホセとディエゴの関係は著しく険悪になります。
 こうして最貧の農家から富豪地主の家に少女は嫁いでいきます。最初富豪家族とモンツェの関係はぎくしゃくしていましたが、ホセの言う搾取階級の顔ではないユートピア思想家の義理の父(地主)や、ファシストの義理の姉の優しさや、かなり入り込んだ興味深いエピソードがたくさんあり、この小説の背景を肉厚のものにしています。
 1937年3月、モンツェは女児を出産し、その名はLunita(ルニータ)と名付けられます。小説はすんなり通り過ぎていますが、これ、そんじょそこらにあるファーストネームではないと思いますよ。「統一」という意味のイタリア共産党の機関紙(1924年グラムシが創刊)と同じ名前ですし、日本の書店「ウニタ書舗」と同じ語源でしょうし。
 しかし戦況はどんどん悪化し、4月にはドイツ空軍によるゲルニカ爆撃(1500人の市民が死亡)があり、ナショナリスト軍は全前線で攻勢に出ます。モンツェたちの住むカタロニアの村にもナショナリスト軍の攻撃があるとの情報をつかみます。すると村への道でナショナリスト軍を待ち伏せして迎撃する、という役目をホセとその仲間たちが買って出るのです。普段ことごとく対立しているホセとディエゴはここで雪解けを見るわけですが、この村防御の激戦の中、ホセはどういう状況か誰にも見られていない状態で戦死してしまいます。その甲斐あってナショナリスト軍は退散していきます。ホセの死は英雄的と村人たちは厚くその霊を弔うのですが、あろうことか、どこからかホセはディエゴによって暗殺されたのではないか、という噂が立つのです。人の口に戸は立てられません。村人たちは疑心暗鬼になります。誰も信用できない。村長代理のディエゴはこの噂に深く傷つき、消耗し、不眠症となり、村人たちから孤立していきます。.....

 1937年冬、村はナショナリスト軍の手に落ち、モンツェは乳飲み子ルニータを抱きながら、何日も何日も徒歩で北上し、国境を越えてフランス領に入り、その命を死の寸前で救うことができたのです。17歳の少女母はフランスに受け入れられ、言葉を知らぬことと外国人であることで多少の差別を受けながら、この国で必死に言葉を覚えて「泣かないで」生きていくことを決心したのです。Pas pleurer。泣かないこと。
 
 小説は最初その読み辛さに手こずると思います。それは1920年スペイン生れのモンツェという女性の語り口をそのまま文字化しようと試みているからです。この女性は何年何十年たとうが、ちゃんとしたフランス語を覚えることができないで、スペイン語、カタロニア語、フランス語が混じり合った、モンツェ独特の言語しか語れないのです。作者はそこに注釈など入れたりしないのです。そのままのモンツェ語。この小説のマジックは、この生き生きとしてリアリティーに富んだこのチャンポン語を、読む者がどんどんわかるようになってしまう、ということです。わかると言うのではなく、感じると言うべきでしょうか。
 後日ディエゴもフランスに亡命し、モンツェとルニータと合流します。トゥールーズに近いフランス南西部の町で3人は暮らし、1948年には次女リディアが誕生します。それが作者自身です。
 マジョルカ島で地獄を見たことによって、強硬な右翼人から翻ってファシズムとカトリック教会の共犯を告発するに至ったジョルジュ・ベルナノスの勇気にこの小説は最大級のオマージュを捧げます。少女モンツェはベルナノスが地獄を見ていた同じ頃に、バルセロナで束の間のユートピアを見ていたのです。そしてこの老女は、その夢のような1936年夏から抜け出すことができないのです。Viva la República !


カストール爺の採点:★★★★★

LYDIE SALVAYRE "PAS PLEURER"
スイユ刊 2014年9月 280ページ 18,50ユーロ

(↓)自著『泣かないで』を語るリディー・サルヴェール

Pas pleurer - Lydie Salvayre 投稿者 EditionsduSeuil

2014年11月25日火曜日

ヒア・カムズ・ザ・サン

ラ・タルヴェーロ『さんさんの太陽』
LA TALVERA "SOLELH SOLELHAIRE"


 ラ・タルヴェーロのオリジナル・アルバムとしては2009年の『ソパック・エ・パタック』以来5年ぶりになります。マッシリア・サウンド・システムが結成30周年(アルバム『マッシリア』)なら、こちらラ・タルヴェーロは来年35周年で、みんな貫禄十分です(特にセリーヌ・リカールのことを言っているわけではありません)。
 マッシリアがマルセイユ、ファビュルス・トロバドールがトゥールーズ、ニュックス・ヴォミカがニース、モーレスカがモンペリエと、オクシタニア・ムーヴメントのアーチストたちは都市をベースにしているケースが多いのですが、ラ・タルヴェーロはタルン県(ミディ=ピレネー地方)コルド・シュル・シエルという田舎町を拠点としている田園派です。
 このタルン県で最近メディアに大きく取り上げられている事件があります。 それは1969年から進められているタルン川の支流を堰き止めて灌漑用のダムを建設するシヴェンス・ダム計画をめぐって、それに反対するエコロジスト団体や土地の農民同盟(コンフェデラシオン・ペイザンヌ)の抗議行動が、2014年9月に強制的に始まったダム予定地の森林伐採作業によって激化し、反対派と機動隊が激しく衝突した結果10月26日に21歳のエコロジスト青年レミ・フレッスが、至近距離で発砲された催涙弾を受けて死亡してしまったのです。「警察の暴力」「機動隊による殺人」「国家の犯罪」と、激しい抗議糾弾デモが全国で起こり、1ヶ月経った今日も、その抗議行動は鎮火していません。
 わがラ・タルヴェーロも、この事件に関してはインターネットを通じて積極的に抗議のメッセージを発信しています。近隣の土地で起こっている事件であり、土地の農民たちと密接に関係を持っている音楽グループですから。ダニエル・ロッドー(1954年生れ。当年60歳)は コルドでNPO団体コルダエ(CORDAE)を主宰し、ラ・タルヴェーロの音楽活動と、オクシタニア民謡・民話の発掘・採譜・出版活動を行っています。ラ・タルヴェーロのレパートリーは大別して二種類あり、ロッドーとコルダエのメンバーがタルン県および近隣諸県の地方に出向いて、村の奥深くにひっそり伝承されているオック語民謡を発掘・採譜した楽曲を、ラ・タルヴェーロの現代的な編曲で録音・演奏するものが一方にあり、もう一方にロッドー詞曲のオリジナル・ナンバーがあります。どちらもとても重要なことをしているのですが、一般リスナーたるわれわれとしては、発掘民謡再生よりも、田舎から今現在をビシビシ照射するロッドー・オリジナルにどうしても興味を引かれてしまうのです。だから私も持っていてもめったに聞かないラ・タルヴェーロのCDがあります。この辺がこのバンドがポピュラーになれない一因かもしれません。
 マッシリア・サウンド・システムのタトゥーは今から10年前、2004年のデペッシュ・デュ・ミディ(ミディ・ピレネー地方最大の地方新聞)のインタヴューで、こんなふうにダニエル・ロッドーにオマージュを捧げています。
ダニエル・ロッドーは俺の生涯で出会った最も重要な人物のひとりだ。俺にとって手本なのだ。それは反中央主義であり、エリート思想の拒否であり、民衆の声だ。われわれの祖父祖母たちも音楽をやっていたんだが、人々は彼らが農民やプロレタリアだったから興味を示さなかったんだ。それがダニエル・ロッドーのところにはあるんだ。彼は俺に世界との対話に対処する方法を教えてくれた。たとえラ・タルヴェーロがマッシリアのような知名度を勝ち得ていないとしても、それは重要なことじゃない。重要なのは彼らのようにフォルクロール(民衆芸能)を再創造することだ 。デペッシュ・デュ・ミディ紙2004年11月29日
  レゲエ、ラガマフィン、フォッホーなどに比べたら、ずっとジサマバサマに近い音楽をやっているのがラ・タルヴェーロです。重要なのはオクシタン・フォルクロールを再創造すること。父も祖父も音楽をやっていたというロッドーは、若い頃にロックに夢中で、エレクトリック・ギターを弾いてロックバンドをやっていましたが、トゥールーズ大学でオクシタニア文化を学ぶことをきっかけにディアトニック・アコーディオンとボデガ(またの名をクラバ。ラングドック地方のコルヌニューズ。右写真はボデガを弾くロッドー)を自己流でマスターし、その他洋の東西を問わず、幾種類もの弦楽器・吹奏楽器・打楽器に精通するマルチ・インストルメンタリストになりました。毎回ラ・タルヴェーロのアルバムにはいろんな楽器が顔を出しますが、それは南仏オクシタニアの民族楽器に限っているのではなく、世界中の楽器なのです。
 いろいろな世界の音楽も顔を出しますが、とりわけはっきりしているのはブルターニュ(およびケルト)、バスク、カタロニア、マグレブ、コルシカ、サルデーニャ(ロッドー家のルーツです)、そしてブラジル・ノルデスチです。
 それとラ・タルヴェーロのアルバムでいつも楽しみなのは、農場や村市場や山の羊飼いなどのフィールド録音がインターリュードとして挿入されていること。これはマッシリア・サウンド・システムの留守番電話メッセージと同じように、アルバムのピリ辛のアクセントとして重要なエレメントだと思いますよ。

 さて新しいオリジナルアルバム『Solelh Solelhaire(ソレルー・ソレライール)』ですが、このタイトルは「太陽のように輝く太陽」「太陽らしい太陽」といった意味のちょっとした重複語表現です。これはいにしえの羊飼いや農夫たちのまじない言葉で、寒さがあまりに厳しい時に「ソレルー・ソレライール!」と唱えると、ヒア・カムズ・ザ・サン、イッツ・オールライト、と暖かい太陽が現れ、民を照らしてくれた、という故事に由来するのだそうです。この「太陽的な太陽」というニュアンスを、私は日本語+英語のうまい掛言葉として『さんさんの太陽』という日本語タイトルを与えたのでした(どこからも採用されておりませんが)。
  「この『さんさんの太陽』はオクシタニアの太陽であろうが、それは同様にカタロニア、サルデーニャ、ポルトガル、ブラジルといったすべての南の国々の太陽でもあろう。(中略)このアルバムはひとつの物語のように作られている。始まりと結末があり、曲がりくねった道があり、増水した川があり、アルビジョワの国との出会いがあり、時間の進行がある。詩的な表現の詞と政治的なメッセージの歌が隣り合わせで並んでいる。『ソレルー・ソレライール』の隠し味は、音楽スタイルと音色とリズムとサウンド環境の広範囲の多様性であり、それはラ・タルヴェーロのミュージシャンたちが旅したすべての音楽的テリトリー(オクシタニア、ブラジル、アルゼンチン、の反映である。」(コルダエの公式サイトのアルバム紹介)

 ひとつの物語と解説されていますが、豚に始まり、豚に終るストーリーです。アルバムの幕開けである「豚の遺言」は、屠殺の前に最後の意志として公証人を呼んで、豚が遺産相続目録を読み上げる歌です。収税吏には股肉を、銀行家には皮革を、判事には臀肉を、労働者たちには耳と舌を、といった風に皮肉や恨みを込めた遺言が続きますが、世相風刺で大統領夫人(この場合はこの春に大統領と破局したトリエルヴェレール女史)には浮気に耐えられる胃袋(厚かましさの意)をあげよう、なんていう下りも出てきます。そしてロッドーさんには(一番大事な)頭と歯をやるから、俺の死の瞬間にはりっぱな楽の音を聞かせてくれ、と。最後に公証人さんよ、あんたには糞しかやらないけれど、遺言が全部達成されるように責任取っておくれ、というオチ。ブヒの目にも涙。
 このアルバムにもオクシタニアを賛美する歌がいくつか入っていますが、2曲め「オクシタニアの娘たち」は美しい6拍子ブーレで、こんな歌詞です。
オクシタニアの娘たちの
先祖は妖精
山の女神
洞窟と洞窟の間でさまよい
草原に身を転がせる
オクシタニアの娘たちの
先祖は妖精
オクシタニアの娘たちの
瞳の中に虹がかかる
山の色彩
太陽が湿地帯の鏡で
お化粧をすると
オクシタニアの娘たちの
瞳の中に虹がかかる
詩的なイメージです。もう長年のロッドーの良きパートナーとして、またラ・タルヴェーロのメイン・ヴォーカリスト(兼フィフル奏者)として可憐な歌声を聞かせてきたセリーヌ・リカールも、今は大地のおっ母さん的な貫禄ですけど、この伝説を子供や孫に聞かせているような優しさが胸を打ちます。
 オクシタニアに惚れ込んだ遠方の友人の登場です。3曲めはブラジル、ノルデスチのトップアーチストのひとり、シルヴェリオ・ペッソアの詞・曲・歌で「私のシランダ」。シランダは寄せては返す浜の波のようなゆっくりテンポの手をつないだサークルダンスで、トゥールーズのボンブ・ド・バルもよくこのダンスをレパートリーに入れてます。津軽人の私は、これはちょっとネブタ囃子のリズムにも似てるなぁ、なんて思ったりもします。シルヴェリオ・ペッソアとラ・タルヴェーロは2010年に「フォッホクシタニア」(フォッホーとオクシタニアをくっつけた造語)というプロジェクトで共演ツアーをフランスとブラジルで挙行しました。ノルデスチとオクシタニアが歴史的・音楽的に繋がっているというダニエル・ロッドーの仮説(フェムーズ・Tのリタ・マセドによるとこの仮説は立証されていない)もあって(それに加えて、フランスにおけるオクシタニアとブラジルにおけるノルデスチに共通する反中央・反権力の雰囲気もあって)、ロッドーとペッソアは大親友になってしまったのです。ペッソア作のこの歌のリフレインはこう歌います。
やあ オクシタニア
ふたつの海の間で暖まっている国
やあ オクシタニア
俺の国にそのまま留まってくれよ
7曲目の「タルン川の洪水」はおそらく上に紹介したシヴェンス・ダム建設反対運動と関連しての歌だと思います。軽快でフォーキーな歌なのに中身はこんなです。
タルン川が増水すればタルナード
ヴェール川が増水すればヴェラート
レズ川が増水すればレザード
ガルドン川が増水すればガルドナード
そうなりゃすごい洪水さ
ダムの決壊と大浸水
土地は全部ひっくり返される
この災害は鎮まることを知らない

5月がやってきたら
私はよそから吹いて来る風を感じたいの
遠くから聞こえてくる通りの声
それはささやき声だったのが、怒りの叫びになる
最初は9人か10人の声だったかしら
その叫びは夜の闇にかき消される
だけどそれは突然何千人の声になるの
寝床から大河が噴き出るように
国会の与太者どもは大慌て
水が政府を流し去ってしまうの
明日おまえたちは水に流されてる廃棄物でしかなくなるの
小枝か藁くずのようなもの
他の者がおまえたちに取って代わっても
違う洪水がまたやってきて、そいつらも転覆させちゃうの
いやはや恐ろしい自然の怒りでございます。政府は早いところダム建設中止を発表するべきでしょう。
 ところでラ・タルヴェーロというバンドは、ロッドー(各種楽器+ヴォーカル)とセリーヌ・リカール(ヴォーカル、フィフル)、ファブリス・ルージエ(クラリネット)、セルジュ・カボー(パーカッション)の4人以外、固定したメンバーはいなかったのですが、このアルバムではセルジオ・サラニッシュ(ギター、ベース)、トニー・カントン(ヴァイオリン)、そしてヴォーカルとヴァイオリン担当でアエリス・ロッドーがバンドメンバーとしてクレジットされています。アエリスは言うまでもなくダニエル・ロッドーとセリーヌ・リカールの娘で、まだ大学生(モンペリエ、ポール・ヴァレリー大学)ですが、既に2004年の大傑作アルバム『民よ、わが民よ(Poble, Mon Poble)』で7歳で作詞した「爆弾はいらない(Pas de bomba)」という歌でヴォーカルを取っています。今はたいへんきれいなお嬢さんです。
 そのアエリスのヴォーカルもフィーチャーされ、セルジオ・サラニッシュのギターも大活躍する曲で、本アルバムで私が最も気に入っている歌が10曲めの「おまえに送る(Te Mandi Ieu)」です。ゲーム音、プッシュフォン電話の音、ホイッスル、ラテン・パーカッション、ファズ・ギター、カントリー・ギター、コルヌミューズ、アコーディオン、その他たくさんの種類の音が飛び交い、ロッドーのごきげんなかけ声が混じってきます。
鏡の中から見つけ出した
この私の似顔絵をおまえに送ろう
それは命のかけら、私の最も深い考えの反映
私のまぶたのヴェールの上にあった
少しばかりの愛をおまえに送ろう
私の全くはっきりしない思いのつまった
少しばかりの夜と少しばかりの昼を
グレジーニュの森の赤い土の香りを
おまえに少し送ろう
葡萄畑に吹きつける南風と蜜も少し
見知らぬ人からうつされた
大笑いをおまえに送ろう
その口の動きは
無口な微笑みよりもずっと暖かい

わが友船頭よ
見知らぬ海へ漕ぎ出せ
そして急いで
このオクシタニアの手紙を運んでいけ
という手紙の歌なのですけど、自分の思いを伝えるのにいろいろなものを描写して送ろうとする、ちょっともどかしく、ちょっとロマンティックで、 たいへんデリケートな歌詞です。いろんなものを詰めようとするから、いろんな種々雑多なサウンドが顔を出すのですね。複雑で素敵なラヴソング。一回目に出て来るギター間奏が、「バードランド」(ウェザーリポート)のジャコ・パストリウスのハーモニクス・ベースのもじりであることも、ちょっとニッコリしてしまいます。
 この10曲めからアルバムはどんどん尻上がりによくなっていきます。くわしい説明は割愛しますけど、歌うこと音楽を奏でることの病みつきを治す医者などないと歌う12曲め「歌う必要」、美しい赤レンガの町アルビ(「野の中に赤髪のように立ち、鮮紅色の葡萄のように燃える家々」)を歌う13曲め「アルビジョワの国」など、ダニエル・ロッドーのソングライティングに敬服します。
 そして最終トラックの15曲めに至って、出だしがボブ・マーリー「アイ・ショット・ザ・シェリフ」風なオールドスクール・レゲエで笑ってしまいますけど、現政府および政界全体を徹底的に罵倒する「やつらは盗賊」という歌です。
夏が来ても、夏も前の冬と同じ
いつも同じようにムッシュー 悪政府が統治している
冬が来ても、冬も前の夏と同じ
いつも同じようにどうしようもない悪政府が統治している
保守、中道、左派、
やつらはみんな同じ糸で縫われている
やつらはもうすぐマダム某に連れさらわれてしまうさ
俺たちにはやっと厄介払いができるってこと
わが友、市民よ、よく聞け
支配者たちには吐き気がする
やつらは盗賊で、嘘ばかりついている
俺たちの憎悪の声を上げよう、やつらには悪い最後が来るだろう!
そう、世の中はちっとも良くなっていないし、どんどん悪くなっている。ゼブダやマッシリアやその他のアーチストたちも、みんな同じ結論を言っている。マッシリア30年、ゼブダ29年、ラ・タルヴェーロ35年、ず〜っと同じように社会的・政治的なメッセージを込めて音楽活動をしてきているのですが、 世の中は21世紀に入ってどんどん悪くなっちゃっているのです。だからと言って、言うことをやめる、歌うことをやめる、というわけにはいかないのです。
 ラ・タルヴェーロの本作は、そういう状況コミットメントも相変わらずですけど、それにも増して、詩的(ポエティック)なアルバムです。美しいオクシタニアの野は、太陽がここよりも多いのではなく、太陽を求める声に敏感なのではないか、と思うのであります。

<<< トラックリスト >>>
1. LO TESTAMENT DEL PORC (豚の遺言)
2. LAS DROLAAS D'OCCITANIA (オクシタニアの娘たち)
3. MINHA CIRANDA (私のシランダ)
4. SENS TU (おまえなしには)
5. DE QUE FASON AQUI ? (やつらはここで何をしている?)
6. VOLI CAP MORIR (私は死にたくない)
7. LA BONA TARNADA (タルン川の増水)
8. AI TU MA COTIA (おまえは私の分身)
9. VIDA (命)
10. TE MANDI IEU (おまえに送ろう)
11. LAS TRETZE LUNAS (13の月)
12. LA CANTANHA (歌う必要)
13. AL PAIS ALBIGES (アルビジョワの国で)
14. SE IEU PODIAI MUDAR LO TEMPS (もしも時間を変えることができたら)
15. SON DE BANDITS (やつらは盗賊)

LA TALVERA "SOLELH  SOLELHAIRE"
CD CORDAE/LA TALVERA TAL19
フランスでのリリース:2014年12月8日

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)ラ・タルヴェーロ『さんさんの太陽』抜粋集

Solelh Solelhaire extrait 投稿者 armandine-foglieni



 

2014年11月15日土曜日

耐えられない "légèreté"

   アルバム評ではありません。
 2014年11月10日、パリを歌ったシャンソンをカヴァーしたザーズのジャズ・アルバム『パリ』(←写真。プロデュース:クインシー・ジョーンズ)はフランスでリリースされました。このプロモーションで、フランスの音楽チャートのサイトである "CHARTS IN FRANCE"にザーズのインタヴューが掲載されました。カヴァー曲でアルバムを作ったきっかけ、クインシー・ジョーンズとの出会い、パリで鍛えられ(ストリート・ミュージシャンだったこと)パリで頭角を表したことの回想、国内よりも外国で有名で売上高の多いことに関する考察、セレブであることのメリット・デメリットなど、たくさんのことを喋っています。
 絶賛する人もいれば酷評する人もいる。これはいたしかたのないことです。しかしけなす人の理由が、この人がストリート出身である、という侮蔑観に由来する場合、彼女は黙っているわけにはいかない。音楽学校も出ているし、プロとしてバンドにもいたし、ピアノ・バーなどでも歌ったし、一通りの下積みをした上で、ストリートに出ている。これをなにかSDF(ホームレス)で物乞いをしながら歌っていたように書かれてしまう。ま、エディット・ピアフ神話とオーヴァーラップさせようとする、レコード会社プロモと物書きたちの脚色もあるんでしょうが。程度こそ違え、ラ・リュー・ケタヌー、アメリー・レ・クレヨン、ラ・マノ・ネグラ(マニュ・チャオ)、レ・ギャルソン・ブッシェ(フランソワ・アジ=ラザロ)、ケジア・ジョーンズ... みんなストリートで歌っていましたけれど、SDFだったわけではない。それでもオランダ出身元歌手(ギンザレッドレッド)現テレビ司会者のデイヴに至っては、2014年9月のピープル誌VOICIのインタヴューで「この女は毎日脇の下を洗ってないような印象がある」などととんでもないことを言ってしまうんですね。それに対してはこのインタヴューで「わたしは自分の体を洗っているかどうかなんて証明する必要なんかないわ」と軽くいなしていますが、ほんと度を超えた侮蔑だと思いますよ。

 さて このザーズのインタヴューの中の発言に関して、11月14日付けのリベラシオン紙(フランソワ=グザヴィエ・ゴメスの記事)が苦言を呈しました。問題の箇所を訳します。
(問い:この新アルバムであなたが歌っているパリは、まさに現実と一致するものなのでしょうか? それとも単なる幻想にすぎないのでしょうか?)
ザーズ「わたしはこれらすべての歌が現在においてもとても今日的だと思ったの。わたしは喜びを養分にして生きているの。歌うっていうことはわたしの喜びにわたしをコネクトさせること。フランスではネガティブなことばかりに人の関心が集中しすぎてるんじゃないかってわたしは思うの。ネガティブなことの一方で多くの人たちが社会を作り直しているし、別のことを提案してくれている。そういう人たちにはなかなか注目が集まらない。わたしはそれがとても残念なの。パリでは、占領下の時代でも、ある種の "légèreté"があった。 人々はたとえ全的に自由の状態じゃなくても、自由を歌っていた。わたしにとってそれこそがパリなのよ。すべてが可能なところ、そこだから人々は新しいことができる」。
リベラシオン紙がひっかかったのは、(私がわざと訳さなかった)"légéreté" という言葉です。手元の大修館スタンダード仏和辞典では
1. 軽いこと、軽さ  2.(動作の)軽やかさ、敏捷   3. (布などの)薄さ、(罰・誤り・傷などの)軽さ、(酒の味の)さわやかさ   4.(形の)優美   5. (口調・文体などの)軽妙
といった訳語が並んでいます。要は軽さです。ミラン・クンデラの1984年の小説『存在の耐えられない軽さ』のフランス語題も" l'Insoutenable légèreté de l'être"なのです。ザーズが言ったのは、第二次大戦中のナチ占領下のパリにも「ある種の軽さ」があったということなのですね。リベラシオン紙はこれを "Des propos déplacés et faux"(不適切で間違った表現)と言います。その記事の一部を以下に訳します。
ドイツ軍に占領されていた首都にもしも「軽さ」があったとすれば、それは黄色い星をつけられていた人々の側ではない。また当時支配的だった密告と相互不信の雰囲気を定義するのに「軽さ」は適切な言葉ではない。食糧不足・エネルギー不足・配給割当制・戒厳令というコンテクストの中で、ほんのひとにぎりのパリ市民が「軽く」不自由のない生活を送っていた。(中略)
この「軽さ」はパリ解放の時に糾弾されたのだ。とりわけ占領下パリで仕事を続けていたアーチストたちの「軽さ」は。エディット・ピアフ、シェルル・トレネ、レオ・マルジャーヌその他たくさんのアーチストたちは、観客最前列にいる緑灰色の軍服(註:ナチス)の将校たちの前で歌っていたのだ...
 これを「軽さ」と言ってはいけない、ということなのです。1980年生れですから、ナチス占領時代から30数年後の世代でしょうが、人々の記録と記憶の中では、それは「ある種の自由」や「ある種の軽さ」ではありえないのです。ザーズさん、わかってください。

(↓)ザーズの新アルバム『パリ』 のオフィシャル・ティーザー。


PS : 11月16日、ザーズさんが公式Facebookページで、この「軽さ」の件で言及しています。
わたしが歴史家ではなくても、わたしたちの歴史のこの暗い時代が、自由の時代でも軽さの時代でもなかったことは知っている。例外は占領軍と対独協力者たちにとってだけで、これらの人々にわたしはいかなる親愛感も抱いていない。
あのような言葉を連ねたことはたしかに不器用であった。わたしが単に表現したかったのは、あのような状況に置かれながらも人々の生活は続いていた、ということ。わたしの頭にあったのは、あの素晴らしい映画『人生は美しい(La vita è bella)』(1997年ロベルト・ベニーニ監督イタリア映画)のこと。
幾人かの論争好きな人々がこのことを悪意あるやり方で紹介することをよしとしているのをわたしは残念に思う。その筆の才能を、(わたしが全く信用していない)疑わしい政治観を持つ人々やあらゆる過激思想の信奉者たちと対決することに使うこともせずに。

この最後のパラグラフですけど、
Je regrette que certains esprits polémistes aient cru bon les relayer de manière malsaine, plutôt que d'affûter leur talent de plumitif à l'encontre de prises de position plus douteuses, ou de sympathisants extrémistes de tous bords dont je ne fais pas "Paris". (赤字は引用者)
赤字にしたところは「わたしが全く信用していない」と訳しましたが、直訳的には「わたしが賭けない」「わたしが選択しない」という意味と、ギユメつきで「Paris(パリ)」としたことで「わたしがパリ的とは思わない」というような意味と掛けてあるのです。

いいじゃないですか。良い反論だと思います。


2014年10月27日月曜日

シュペール・ナナ(1974年)

ミッシェル・ジョナス「シュペール・ナナ」
Michel Jonasz "Super Nana"

詞曲:ジャン=クロード・ヴァニエ

 ジャン=クロード・ヴァニエは1943年パリ郊外オー・ド・セーヌ県の小さな町ベコン・レ・ブリュイエール生れ(同地に生まれた先輩にミッシェル・ルグランがいます)。独学の音楽家で、最初は録音スタジオのサウンドエンジニアとしてプロになります。とりわけアラブ音楽の録音に立ち会っていて、この経験が後年のストリングス編曲に大きな影響を与えることになります。その編曲/オーケストレーションは、学校に行かずに「クセジュ文庫」の1冊で習得したという伝説があります。編曲家ヴァニエのデビューはサラヴァ・レコード、ブリジット・フォンテーヌの初LPアルバム『ブリジット・フォンテーヌは狂女である!』(1968年)で、 その中の2曲("Il pleut", "Je suis inaaptée")の作曲も手がけています。
 メジャーシーンでちょっとヴァニエの名が知られるようになったのは、ジョニー・アリデイの全キャリア通じての最大級のヒット曲「ク・ジュテーム(Que Je t'aime)」(邦題「とどかぬ愛」1969年)のオーケストレーションで、その静から動、さらに疾風怒濤にクレッシェンドして静に戻るというドラマチック編曲の手本中の手本、と後世に伝えられています。同時期同系のヴァニエ編曲でミッシェル・ポルナレフ「渚の思い出(Tous les bateaux, tous les oiseaux)」(1969年)というのもありますが、前者には到底かないません。なおポルナレフとは73年制作(発表74年)のアルバム "Michel Polnareff"(別名ポルナレーヴ、別名アイラブユービコーズ)のプロデュースにも関わってます。
 しかしヴァニエにとってこの時期の最も大きな事件となったのは、セルジュ・ゲンズブールのアルバム『メロディー・ネルソンの物語』 (1971年)の編曲と作曲です。当時27歳の気鋭の編曲家君は、その後世に歴史的名盤を残すなんてことはつゆも思わず(実際その当時は全く売れなかったし、注目もされなかった)に、「これも仕事ですから」と職人的にロンドンのスタジオでゲンズブールとおつきあいしていた。この辺の事情は、今、雑誌原稿を準備中なので、そちらにまかせますが、『メロディー・ネルソン』が歴史的アルバムの座に昇格するのって、80年代(世界的には90年代?)のことですから、ヴァニエさんはその日まで、一介の編曲家・作曲家・作詞家・映画音楽作者・楽団指揮者そして数枚のアルバムのあるマイナーな自作自演歌手にすぎなかったのです。
 その不発の『メロディー・ネルソン』の後も、ヴァニエはフランスのヴァリエテ界で仕事をしていて、ジェーン・バーキン、マイク・ブラント、シルヴィー・ヴァルタン、ダリダ、フランソワーズ・アルディ、クロード・ヌーガロ、ジュリアン・クレールなどの曲提供者・編曲者となっています。その中のひとりが1972年にデビューしたミッシェル・ジョナス (1947 - )でした。イヴ・シモン、アラン・スーション、ヴェロニク・サンソンなどと共に70年代の自作自演歌手(シンガーソングライター)の時代を作った旗手のひとりですが、ミッシェル・ジョナスの初の大ヒット曲は、自作曲ではなく、ジャン=クロード・ヴァニエの詞曲だったのです。おそらくこれがフランスで今日まで最も知られているヴァニエの作品ですが、誰もがこれをジョナスの曲だと思っていて、ヴァニエのことなど知らないのです。

俺が通りにゴミ箱を出すと
今日はゴミ収集ストライキ18日め
この郊外団地で
あの娘ほどきれいな子は見たことがない
ミルクバーのおねえちゃんか
映画館の暗闇で
バナナの皮を剥いてくれるおねえちゃんかって?
それは咳に効くやつだろう?
トローチかカシューか
自動販売機のボンボンだろうって?
そんなんじゃない! あの娘は

シュペール・ナナ
シュペール・ナナ
シュペール・ナナ
シュペール・ナナ

毎日俺はガラガラ鳴る箱を蹴飛ばして
フットボール
こんなブリキ箱みたいに
俺も堂々巡りさ
俺が高いベランダから釣り糸垂らして
彼女を釣ろうとすると
彼女は駐車場の中に俺を連れ込むんだ
セメントの上だって
ここは超安値で行けるブラジルさ
俺は麻酔剤の海をクロールで潜っていき
海底に手を着くと
それは雪になったりナパームの炎になったり

シュペール・ナナ
シュペール・ナナ
シュペール・ナナ
シュペール・ナナ

俺はこの街区の端っこの
高層住宅のてっぺんに住んでいる
結核菌も
昇ってこれないほど高いんだ
林立するアンテナの向こう
ジェット雲がドッグレースみたいに
交差しているところに
あの娘はいるんだ
彼女は廃棄物の山を歩いている
たぶんチラシ広告かもしれない
その広告では娘たちがサボテン林の影で寝そべっているんだ
俺の言いたいことがわかるかい?
そうじゃないんだ、彼女はまさに

シュペール・ナナ
シュペール・ナナ
シュペール・ナナ
シュペール・ナナ

 これ、今から40年前の歌ですよ。荒廃した郊外の一篇のポエジー。錯乱的でカラフルでサイケデリックで...。こういう歌詞だとヒット曲になんかなりっこないと思われるムキもありましょうが、21世紀の今日も、ミッシェル・ジョナスの古典として歌い継がれています。(リフレインしか唱和できないですけどね)

(↓)ミッシェル・ジョナス「シュペール・ナナ」(1974年)
        
(↓)ジャン=クロード・ヴァニエ「シュペール・ナナ」(1975年)

2014年10月26日日曜日

Zou ! 真っ青やサウンド・システム


マッシリア・サウンド・システム『マッシリア』 
Massilia Sound System "Massilia"


 マッシリア・サウンド・システム結成30周年記念盤です。ジャケットはブルーの地に浮き彫りレリーフで "MASSILIA"とだけ。
  このブルーは「マルセイユの色」ということにしておきましょう。マルセイユの紋章(→)は十字軍時代(11-13世紀)から使われているそうで、銀地にアジュール(紺碧)ブルー。現在の市章も、フットボール・チームのオランピック・ド・マルセイユ(OM)のチームカラーもこの色。それからマッシリア・サウンド・システムの親衛隊組織であるマッシリア・チュールモのロゴもこの色です。ま、政治的なコンテクストでは青は一般的に「右派」「保守」の色であり、サルコジやUMP党の集会には青旗だらけになってしまいますが、それはそれ。
 2014年10月21日に発表されました。「10・21」はわしらの世代的には国際反戦デーですが、関係はありまっせん。前作『ワイと自由』 は7年前。3人のMC(故リュックス・ボテを入れると4人)が、それぞれのソロ・プロジェクトで忙しくしていた頃で、『ワイと自由』はまた3人寄ればすごいんだぞ、ということを示したかったんだと思いますよ。まだCDも少しは売れていた時代だから、ソロ・プロジェクトだってちゃんとした表現行為・作品として生きるはずと思っていたんでしょうが、あにはからんや、機能したのはタトゥーのレイ・ジューヴェンだけでした。厳しい時代になったものです。別な見方をすれば、1年に1枚のアルバムを出せるようなタトゥーの豊穣な創作力と尽きぬインスピレーションがものを言っているわけです。常にシーンのフロントにいることはね、尋常ならぬものですね。分野も世界も違いますけど、ジョニー・アリディを想ったりしますよ。言わずもがなのことでしょうけど、タトゥー、ジャリ、ガリの3人の個性の違いが問題なのではなく、キャパシティー/クオリティー/クオンティティーにおいてタトゥーは世にも稀なるものがあるっていうことなんですよ。ラ・シオタの怠惰な風流中年みたいな態をしていながら、実際の中身は探求型の音楽人だし、古典にまで博識な文学人だし、詩人だし、批評家だし、イデオローグだし、とにかく多弁の論客だし。この人を並みの人だと思っちゃあいけませんよ。
 『ワイと自由』 のツアーのあとで、また3人別々になってみたら、本当に差ができてしまった。ジャリとガリがよくないとか弱いということではなくて、タトゥーがすごすぎるんだと思います。2013年のマルセイユの年間イヴェント『マルセイユ/プロヴァンス欧州文化首都2013』をめぐって、この3人は大げんかをしたんです。数百年におよぶ中央支配および中央による搾取の歴史の延長で、こういう押しつけのイヴェント開催でマルセイユ人を手懐けようとしている、とタトゥーは激しく批判したのですが、他の二人は同じ考えではなかった。これは2013年の6月にタトゥーにレイ・ジューヴェンのアルバム『アルテミス』についてインタヴューした時に聞いたことで、その怒りようがあまりにも激しかったので、マッシリアはもうおしまいか、と思ったほどでした。
 その1年後2014年6月に、同じようにタトゥーにアルバム『オペレット』(レイ・ジューヴェン7枚目 )の話を聞きに行ったら、 うれしそうにマッシリアの新アルバムと30周年記念ツアーのことを話すタトゥーがいたのです。やはりマッシリアはこの人を中心に動いているのだ、と確信しましたね。俺が動けば3人になれるんだ、みたいな自信でしょうかね。
 『ワイと自由』 では3人ではなくて「1+1」の歌もあったのですが、新アルバムは全曲3MCですからね。この3人へのこだわりがマニフェスト的に表現されたのが3曲め「ひとつのヴァージョンに3人のMC "TROIS MCS SUR LA VERSION"」でしょう。

バラバラになっている場合じゃない。今こそ大変動のために集結する時だ。
マッシリアのMCたちはポジションについた。野郎たち、子供たち、親たちに物申すぞ。カマドよりも熱く、コミック・ヒーローたちより強く、マイクを持つポーズを決め、ファッショどもと戦争をし、アホどもに苛立ち、ボボどもに怒り、コノどもに対しては容赦ゼロだ。

(↑)この部分はジャリが歌ってます。こういう戦闘性がモロに出ているアルバムです。3人集まったら、全然パワーが違うんだぞ、というデモンストレーションのような。この歌のリフレインはこうです。

ひとつのヴァージョンに3人のMCだぞ、緊張が高鳴るぞ
冷血人間ども気をつけろよ、熱いぞ、これがマッシリアだ、炸裂するぞ!
30年間これをやってきたマッシリアは偉大なんだ、という大風呂敷自画自賛が8曲め、その名も「マッシリア・ナンバーワン "Massilia No.1"」という歌です。

30年間に3百万リットルのパスティス酒
ポール・リカールだってしまいにはオランジーナになっちまった
MCたちが俺たちの頭を支えてくれようとしたんだが
やつらもバーカウンターの裏で、ぶよぶよのフライドポテトになっちまった
コペンハーゲンでは二度とこんなことにはならないぞ
やつらは水で薄めるってことを知らなかったのさ
ムンバイでもやつらは俺たちに挑もうとしたんだが
倒れる前にやつらは叫んだ「マッシリア・ナマステ!」
ブルトン(ブルターニュ人)だって、シュティ(北フランス人)だって
みんな真っ赤になってのびた
ブラジル人でさえ、四つん這いで逃げ出した
ある日アリエージュの山ん中でひとりのラスタが俺たちに言った
「マッシリアにリスペクト、あんたたちは俺の分別をぶちこわしてくれた」
俺たちに悪さをすることができたのはコルシカ人だけだ
それでもやつらは朝になるとみんな声を揃えてプロヴァンサル語で歌うんだ
マルセイユからハンブルクまで、そしてモンゴルでも
おまえが「やあ」とあいさつすると、みんなが「アヨーリ!」と叫ぶんだ

マッシリア・ナンバーワン、チタン鋼より堅く
マッシリア・ナンバーワン、サヴァンナより熱く
マッシリア・ナンバーワン、ジタンよりも強烈で
マッシリア・ナンバーワン、税関よりも狡猾で....

 ナンバーワン、ザ・ベスト、ザ・チャンピオン。世界最強のおっさんたちとして世界に君臨するのです。インド人もびっくり。インド人たちが「マッシリア・ナマステ!」と敬礼するくだりには笑ってしまいますが。こういう大ボラ話が、(われわれフランスに住む人間たちにしてみれば)、極めて極めて「マルセイユ的」なのです。ホラとペタンクとパスティスがマルセイユの三大フォークロアであり、それをマッシリアはマジに誇りに思ってますよ。
 そしてそのマルセイユに関して、1年前の「 マルセイユ/プロヴァンス欧州文化首都2013」をめぐる3人の衝突に決着をつけるように、このイヴェントを14曲め「マルセイユに告ぐ "A Marseille"」という歌で総括します。

機会は逸し、約束は守られない
再考された都市は、なにかのコピーの焼き直し
人々は海岸を歩きながら空しく思った
人々は自分たちのアイデンティティーを奪われたように思った
彼らはすべてを変えたかったのだが、一体どんな計画でそうしたかったのか?
俺たちは何も求められなかったのに、俺たちはそれを強いられた
多くの人たちはそれを忍従したし、多くの人たちは気を悪くした
もうこんなものに関わるのはごめんだと逃げ出した人たちもいた
もう一度立て直そう、そうともこれはあんまりだ
戦士の精神をもう一度目覚めさせよう
マルセイユ人たちはどこへ行ってしまったのだ?

やつらのポリティックはただひとつ
俺たちは這いつくばって生きさせることだけ
俺たちを嘲笑う権力者たちは
何も変えようとなどしていない
やつらの企みを見抜くには
虫眼鏡など必要ないんだ
俺たちのスープをまかなうのは俺たちなんだ

誰の許可など求めなくていいんだ

こういうところで3人は意見の一致を見いだして、闘うマッシリアとしてマルセイユにものを言っているのです。同じテーマで、Wake Up わが町、と歌っているのが6曲め「わが町、目を覚ませ! "Ma ville, réveille-toi !"」で、このリフレインは美しいオック語です。(オック語訳してみました。知ってる人は間違いを指摘してください)

O ma Provença  おお、私のプロヴァンサ
siás nacion de convivéncia おまえは愛と暮らしの
De l'amor, la residéncia,  共存する国
L'ostau de la libertat. 自由の庇護者  
Terra polida,  美しい大地

monte lo soleu presida, 太陽が昇り
Monte la calor convida  輝き混じり合いながら
A un mesclum mirgalhat 歓迎の熱も上がる

わが町は「混じり合い」の国なのです。中央政府が青写真で描いたような町ではない。混じり合って輝いていく開かれた町。さまざまな人々の共存する町として目覚めよ、マルセイユ。
 ところがマッシリアが30年も同じようなことを言い続けているにも関わらず、マルセイユも世の中も一向に良くならない。良くならないどころか、2000年代以降、どんどん悪くなってしまっている。これは最近この9月に会ったクロード・シクル(マッシリアと共にオクシタニスム運動の代表的な推進者のひとり。トゥールーズの人。ファビュルス・トロバドールのリーダー)も同じことを言っていて、同じトゥールーズのゼブダや、マルセイユのマッシリアや、コルドのラ・タルヴェーロや、ニースのニュックス・ヴォミカや、いろいろな人たちがさまざまな地方の問題に同じような力強い声を上げているのに、一向にこの社会は良くなっていない。貧富格差は急速に増大し、マスの大衆は仕事も収入も激減して、政治は何もしないのが当たり前、招かれざる者・有益でない者・文化の違う者を排除して自分たちの利権を保持しようとする拝外思想が急伸する、という現実が私たちの目の前にあります。町は目に見えて悪くなっているのです。(こんなこと言いたくありませんが、日本だって同じでしょうに)

 タトゥーが最近のインタヴューで、サイレント・ムーヴィーを例えに出して、俺たちはその音楽伴奏者みたいなものである、なんて面白いことを言ったのですよ。それがなければ無声映画は面白さにも説明にも欠けるのだ、と。音楽によって観る者はその映像を劇的に想像して作品を把握するのです。タトゥーたちはまずマルセイユの日常を無声映画的に映し出し、それを映画館つきのピアニストのように音楽で表情をつけ、歌詞でもって活弁士のようにその映像世界を具体化する。映画発祥の地ラ・シオタを地盤として、世界に音楽を発しているタトゥーならではの発言だと思いますよ。
 このアルバムでもマッシリアは政治腐敗を糾弾する歌(10曲め "L'ELIGIT")、巨大ファイナンスによる世界支配を暴く歌(4曲め"ES TOT PAGAT")、インターネットとSNSの善悪を説く歌(11曲め"QUAND ON VIT CONNECTE")など、世相に対する批評の目は常に鋭いのです。先達か同業者か、おそらくマッシリアもリスペクトしていたと思われるフランソワ・ベランジェの「これらのひどい言葉 "TOUS CES MOTS TERRIBLES"」 、アラン・ルプレストの「おぞましいものはすべてきれいな名前を持っている"TOUT C'QU'EST DEGUEULASSE PORTE UN JOLI NOM"」と多くの共通点を持つ13曲め「これらすべての言葉 "TOUS CES MOTS"」も最近の世相語を激しく嫌悪していたり。しかしボブ・ディランの有名な歌をなぞったと思われる7曲め「答は風の中に舞っている "LA RESPONSA ES DINS LO VENT"」だけはもうちょっと説明が欲しいところではありましたが。

 おしまいに、これだけは特記しておきたいことを書きますと、上にちょっと紹介したインターネット現象に言及する歌で、極右フロン・ナシオナル党への敵愾心をむき出しにしている11曲め 「オンラインで生活してると "QUAND ON VIT CONNECTE" 」 の中で、タトゥーが歌う詞の中にこんな数行が現れます。

俺はバンジョーが好き、俺はピカソが好き
俺はフェメンが好き、俺はアペロが好き
俺はアヨーリが好き、俺はドゥルッティが好き
俺はブルースとYoshi Oki が好き

 お立ち会い、これは言うまでもなく、われらが友にして世界一のマッシリア・グルーピーである「おきよし」(→写真)さんのことです。日本で最もマッシリア・サウンド・システム、およびオクシタニア・ムーヴメントに関して愛情を注いで追いかけている女性です。こういう形でタトゥーからリスペクトのオマージュがあったりすると、本当にうれしくなります。オクシタニアの奥に流れる「女性崇拝 L'amour courtois」のひとつの具体例とも解釈しておきましょう。


<<< トラックリスト >>>
1) Li siam リ・シアム(俺たちはここにいる)
2) Si leva mai la cançon (俺から歌を取り去ったら)
3) Trois MCs sur la version  (3人のMCがひとつのヴァージョンで)
4) Es tot pagat (支払い済み)
5) Je marche avec (俺と一緒に歩く人たち)
6) Ma ville réveille-toi ! (わが町よ、目を覚ませ!)
7) La responsa es dins lo vent (答えは風の中に舞っている)
8) Massilia no 1 (マッシリア・ナンバーワン)
9) Pourquoi je morfile ? (なぜ俺だけが罰を受ける?)
10) L'eligit (選ばれた者)
11) Quand on vit connecté (オンラインの生活をしていると)
12) Parlar fort (大声で言え)
13) Tous ces mots (これらすべての言葉)
14) A Marseille (マルセイユに告ぐ)
15) Libres jusqu'à lundi (月曜日までの自由)(※)
16) Ils sont loin (テレビは遠い世界)(※)
                  (※ LPのみに収録)



MASSILIA SOUND SYSTEM "MASSILIA"
CD/LP Manivette Records MR10
 
フランスでのリリース : 2014年10月21日

カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)マッシリア・サウンド・システム30周年盤ティーザー"Si leva mai la cançon "

2014年10月25日土曜日

記憶の取る捨てる(トルステル)

Patrick Modiano "Pour que tu ne te perdes pas dans le quartier"
パトリック・モディアノ『おまえが迷子にならないように』


 2014年10月はじめに出版されたモディアノ最新作ですが、その直後の10月9日にああいうことになって、その後急遽(←)こういう赤い「腰巻き」がつけられるようになりました。この作品が受賞作品というわけではないですが、パトリック・モディアノ(1945 - )は2014年度ノーベル文学賞を授与されました。おめでたいことです。
 さて、そのおめでたいことを打ち消すように、この小説の第一行は
Presque rien.
(プレスク・リヤン)と始まります。「ほとんどなんでもないこと」。そして「自分では最初はまったく軽いことに思われた虫刺されのようなもの」と続きます。最初からこんなこと言われても、と読者は毎度のモディアノ小説のように挫かれそうになります。ここで、よおし、こうなったら何が何でも着いていくぞ、という意気込みを持つことが肝心なのです、モディアノ読者は。
 スタート地点は2010年代の現代です。60歳を過ぎた一人暮らしの老作家(とは言っても昨今は何も書いていない)のジャン・ダラガーヌの自宅電話が、しつこくしつこく鳴っている。もう誰も電話連絡などしなくなって久しいのに。受話器を取ってみると、「あなたが落とした住所録手帖を見つけたので届けたい」と。その柔和ながら威圧的な電話の主は「ご自宅までお届けに上がりたい」と迫ってくるので、ダラガーヌは不穏ならぬものを察して「いや、どこか外でお会いしましょう」と巻きを計ります。読者は開始早々、サスペンス小説の雰囲気を感じとります。Eメールとスマートフォンの時代にあって、ほとんど用のなくなった年代ものの住所録手帖はダラガーヌ自身ほとんど使うことがなくなっています。いつ落としたのか?1ヶ月ほど前、南仏へ向かうTGVの中で、車内の検札係にチケットを見せようとポケットから出した際に一緒に落ちたのかもしれないけれど定かではない。だが、それはすでに無くても別に困らないもの。そういう「ほとんどなんでもないこと」だったのです。
 住所録手帖を返してもらいに約束の場所に行ってみたら相手は二人。男はジル・オットリーニ、女はシャンタル・グリッペ。 「たいへん失礼ながら、好奇心から私はこの住所録の中身を見てしまいました。その中でひとつだけ気になった名前があり、それについてお聞かせいただければ、と」。やにわに会見は尋問に変わってしまいます。男は広告会社に働くライターで、連れはその女友だちであり、警察やその筋の人間ではない。拾ってくれたお礼だから、知ってることは教えようという気になりますが、かつて自分自身で住所録に記したその名前「ギィ・トルステル」にはまったく思い当たるものがない。おまけにそのトルステルのところに書かれた電話番号は7桁。フランスの電話番号が7桁から8桁に変わったのが1985年のこと(8桁から現行の10桁に変わったのが1996年のこと)で、手帖に書かれてから少なくとも四半世紀は経っているのです。思い出せません、というダラガーヌにオットリーニは喰い下がります。「実は私はある事件について調べていて、それを記事にする準備をしているのです。私は元ジャーナリストでした。その事件にこのトルステルも関係しているのです」と。そして彼はダラガーヌが発表した何冊かの小説を読んだ、このトルステルという名の人物はダラガーヌの処女作『夏の黒(Le Noir de l'Eté)』に登場しているのだ、と。
 そこまで言われても、忘却の彼方にあるこれらのこと。小説『夏の黒』も、そう言えばそんな作品を書いたことがあったなぁ、程度の記憶で、絶版久しいこの本は自分の手元にも一冊もない。ここで描かれているダラガーヌという老作家(元作家が正しいか)は、モディアノの実像とはかなり距離のある、おそらく作家として成功したことなどなく、その過去を忘れ去りたい、ある種のルーザー的佇まいがあります。ですから、ここで急に「作家ダラガーヌ」に立ち戻らされたような戸惑いがあります。
 日は変わって相手はシャンタル・グリッペ。オットリーニに内密でダラガーヌと会った彼女は、オットリーニに脅されているのか、それともその男を愛しているのか、判然としないやり方でダラガーヌにトリステルに関する記憶を取り戻すように嘆願します。オットリーニを助けてやってほしい、さもなければオットリーニは会社もクビになり、生活も立ち行かなくなってしまう、と彼女は言います。しかしダラガーヌは事前にインターネットでオットリーニの勤める会社が存在しないことを知っているのです。元ジャーナリストというのも本の著者であるというのもウソ。その上、グリッペとの話の上でだんだんわかってくるのは、この男はカジノや競馬などの遊び人であり、カタギの世界の人間ではない、ということ。グリッペはその遊び人の帰りを待ちながら、ダンサーなど夜の世界の仕事をして生きる女。モディアノの文章はそうと特定しなくても、このワイルドサイドで生きる人たちの秘密を尊重して明かしません。だからこの二人がなぜトルステルを追っていて、何を探ろうとしているのかは、小説の最後に至ってもわからず仕舞いです。
 しかしここからダラガーヌはだんだんそれが何だったのか、記憶が戻っていくのです。この「待っている女」グリッペの姿はどこかで見たことがある。その記憶は50年以上も前に遡っていくのです。母にも父にも育てられなかった少年ジャン(・ダラガーヌ)を育てた若い女性アニー・アストランは、グリッペと同じように「待っている女」だったのです。
 舞台はパリ北郊外ヴァル・ドワーズの小さな町サン・ルー・ラ・フォレ、その大きな邸宅の一室で幼いジャンはアニーに育てられました。その館は大きなアメリカ車で競馬場やカジノに出かける男たちの溜まり場で、少年ジャンの夜の眠りの途中で聞こえる大きな物音でおぼろげに記憶されています。子供には全く何のことかわからないけれど、このアニーとの優しい思い出はあります。その周りの怪しげな遊び人たちのひとりに「ギィ・トルステル」という名前の男もいたのですが、この男がオットリーニとグリッペが想定しているような重要性は何なのかは、この小説ではわかりません。真夜中過ぎに館にやってきて、朝早くには消えてしまっているこの男たちは一体何なのか。小説はこのことを後年(15年〜20年先でしょう)になって知りたがっているダラガーヌも登場し、この幼年の日の記憶の取り戻しを試みたのがダラガーヌの最初の小説『夏の黒』 だったこともわかってきます。
 すなわち、この小説は子供の頃のジャン・ダラガーヌ、その記憶を取り戻そうとして小説を書いた青年期のジャン・ダラガーヌ、それをまた思い出そうとする今日の老人ジャン・ダラガーヌという3段階の時制で描かれ、それがゴッチャになっていて、その記憶のどれが正しくどれが正しくないかもはっきりしない、五里霧中のジグソーパズルなのです。わかっているのは、このアニー・アストランを取り巻く男たちはカタギの世界の人間ではなく、パリの歓楽街ピガールのバーでアクロバット・ダンサーでもあったアニー・アストランの同僚ダンサーが暗殺され、その警察捜査の手がサン・ルー・ラ・フォレの館に及んで、アニーと少年ジャンはそこに住めなくなってパリのブランシュ(パリ9区ムーラン・ルージュのあつ界隈)地区に住み、そこからさらにイタリアに逃亡する旅を企て...。後年に青年小説家のダラガーヌが知るのはその時にアニーはフランス/イタリア国境で逮捕され、裁判の末、禁固刑になっていたということ。
 なぜ青年ダラガーヌは小説を書いたか。これを作者は小説のほぼ真ん中の70ページめに書いています。
彼がこの本を書いたのは、彼女がそれに応える合図をしてくれるかもしれないという望みだけのためだった。本を書くこと、それは彼にとって、その後消息知れずとなってしまったある種の人たちに向けて灯台の光やモールス信号を送ることだった。それにはページのここかしこにアトランダムにその名前をばらまき、あとはその人たちが連絡をくれるのを待っていればよかった。(p.70)
小説を書くことは、瓶につめたメッセージを海に流すようなものなのです。そのメッセージは宛てられた当人にしかわからない数行なのです。 青年小説家ダラガーヌの思い通り、彼はアニーと再会できるのですが、アニーは名前も変え、そして過去のことを思い出そうとしない女性に変身しています。そのことを老人作家ダラガーヌはどうしてそうなったのか、と思い出そうとするのです...。
 カタギでないアニーは時々は少年ダラガーヌをひとりで放っておかなければならないことがある。パリのブランシュ地区のホテルに二人で暮らしていた時、アニーは少年に四つ折りの紙にホテルの住所を書いて持たせます。そこには住所だけでなく、古風な文字で「おまえがこの街で迷子にならないように」と書かれています。この紙をず〜っとダラガーヌは肌身離さず持っていたつもりだったのに、いつしか無くなっています。それは記憶のように悲しいものです。
 普通人からはよく見えない「カタギでない人々の世界」はこの小説でもよく見えないままにしておきます。なぜ産みの母親は自分をアニーに預け、なぜ「待っている女」アニーは自分をこれほど愛してくれたのか。そして小説は、若い育ての親アニーが、一時期にはダラガーヌの愛人にまでなっていたことを仄めかしもします。 彼女にもう一度会いたくて小説を書く青年作家。字面ではそう読めなくても、これは繊細な恋愛小説であるということもふわ〜っと浮かび上がってくるのです。そうわかると、なぜ少年の日にこの女は自分の前から消えたのか、なぜ青年の日にこの女は変わってしまったのか、この悲しみは深くキリキリと胸を刺してきます。こういうことすべてを老作家ダラガーヌは忘却の彼方に追いやっていたのに、ある「ほとんどなんでもないこと」をきっかけに、暗闇の中の手探りで少しずつ取り戻して行き、最後には限りない悲しみまで至ってしまうのです。だからモディアノ読みはやめられないのです。

カストール爺の採点:★★★★☆

Patrick Modiano "Pour que tu ne te perdes pas dans le quartier"
ガリマール刊 2014年10月  150ページ 16,90ユーロ

(↓)2014年10月9日、パトリック・モディアノのノーベル賞受賞を報じるベルギー国営テレビRTBFのニュース。


(↓)2014年10月9日放送の国営TVフランス5の番組「ラ・グランド・リブレーリー」。パトリック・モディアノ「私はいかにして書くか」のルポルタージュ。


<<< 爺ブログで紹介しているモディアノの作品 >>> 
『失われた青春のカフェ』"Dans le café de la jeunesse perdue"(2007年)
『視界』"L'Horizon" (2010年)
『夜の草』"L'herbe des nuits" (2012年)

2014年10月21日火曜日

400ページのマッシリア本

カミーユ・マルテル『マッシリア・サウンド・システム  -  マルセイユ流儀』
Camille Martel "MASSILIA SOUND SYSTEM - La Façon de Marseille"

<<<  出版社の口上 >>>
 2014年はフランスにおけるヒップ・ホップとレゲエのムーヴメントを開花させた立役者、マッシリア・サウンド・システムの結成30周年にあたる。 このバンドは、オック語擁護から社会的不公平に反対する闘争まで、さまざまな要求メッセージを掲げて時とともに大きな社会現象となっていった。バンドのメンバーたちおよびオクシタニスム運動の活動家たちやミュージシャンやジャーナリストたちの多くのインタヴューに基づき、この本は人物像とその生の断片を織り込みながら、このバンドの揺るぎない世界へと読者を誘う。多数の写真とその解説はバンドの辿って来た道程を再トレースしていく。メンバーとその側近者たちのプライヴェートな記録にまでアクセスを許されたカミーユ・マルテルだからこそ、彼らの音楽的冒険に富んだ時代を見つめ、分析し、つまびらかにすることができたのである。
<<< 著者紹介 >>>
カミーユ・マルテルは1986年生れ。モンペリエを地盤とするジャーナリスト/ミュージシャン。

Camille Martel "Massilia Sound System - La Façon de Marseille"
Editions LE MOT ET LE RESTE 刊 2014年10月21日。400ページ。24ユーロ。

<<< カストール爺より >>>
2014年10月22日、書店に注文を出しました。まだ入手していません。こういう大著ですから、読むのに時間がかかりますが、12月初めのパリでのマッシリア・サウンド・システム30周年コンサートまでには読み終えて、当ブログで紹介するつもりです。刮目して待て。


PS : 10月23日入手。重さ500グラム。 30年分ですから。ヘヴィー、ヘヴィー。

2014年10月17日金曜日

エレーヌ・ヴァンサンのボブ・マーリー踊り

『サンバ』
 

2014年フランス映画
監督:エリック・トレダノ&オリヴィエ・ナカッシュ
主演:オマール・スィ、シャルロット・ゲンズブール、タハール・ラヒム、イジア・イジュラン
フランス公開: 2014年10月15日

 まず最初に本当にシアワセになれるシーンを書きますね。それはサン・パピエ(滞在許可証のない状態でフランスに滞在している外国人たち)を支援するNPO団体の年越しパーティーで、NPO世話人マルセル役のエレーヌ・ヴァンサン(1988年のエティエンヌ・シャティリエーズ監督作品『人生は長く静かな河』の富豪夫人マリエル・ル・ケノワ役! 歳のことで失礼ですが、当時45歳、現在71歳)が、およそこの女性とは縁がありそうもないボブ・マーリーの「ウェイティング・イン・ヴェイン」を歌って踊り始めるのです。美しい! ー この突然で意外な「歌もの」シーンの見せ場は、トレダノ&ナカッシュ作品にあっては "NOS JOURS HEUREUX"(2006年)のザ・ドゥービー・ブラザーズ「ロング・トレイン・ランニング」、"TELLEMENT PROCHES"(2009年)のマイケル・ゼーガー・バンド「レッツ・オール・チャント」、そして "INTOUCHABLES"(邦題『最強のふたり』2011年)のアース・ウィンド&ファイア「ブギー・ワンダーランド」であり、これらのシーンはまさに「トレダノ&ナカッシュ印」あるいは「トレダノ&ナカッシュ・タッチ」とでも言うべき、恩寵の瞬間です。

 さて、トレダノ&ナカッシュの5作目の長編映画で、地球規模ヒットの『最強のふたり』に続く作品です。前作は当ブログも絶賛しましたし、2011年11月にアップしたその記事も当ブログ始まって以来の2万ページビューを越えるご愛読をいただきました。こういう作品の後ですから、新作に大きな期待を寄せていた人たちはフランスでも世界でも多かったでしょうし、2014年12月の日本公開を今か今かと待っている日本の方も多いでしょう。
 アフリカ(セネガル)からフランスにやってきた青年サンバ・シッセ(演オマール・スィ)の物語です。原作は2011年発表のデルフィーヌ・クーラン作の小説『フランスに捧げるサンバ(SAMBA POUR LA FRANCE)』で、当ブログのここで紹介していますが、小説で描かれている、死をかけてアフリカから密航してくる移民の過酷な道程や、ひとたびヨーロッパに着いても非人間的な条件で隠れて生きなければならないサン・パピエの惨状は、この映画にはほとんど登場しません。「社会派コメディー」として描こうとする監督の意志からでしょうか。ずいぶんと原作と違う展開になっています。
 映画はまるでハリウッドミュージカルのような豪華ホテルでのウェディングパーティーに始まり、ウェイターたちが巨大なピエス・モンテや、何十本ものシャンパーニュを運んできます。カメラはそのウェイターたちのバックヤードへの退場を追い、炊事場に入り、そのまた奥の食器洗い場に至ります。そこに大きな体のアフリカ男サンバはいて、汚れた食器から残飯を放水機で払い、業務用の大きな高速食器洗い機に中に並べていきます。いつかは炊事場で働きたいのです。そういう仕事を何年もやってきました。もうフランスに来て10年が過ぎたので、サンバは警察の移民科に10年有効の滞在許可証を申請します。継続的に10年フランスに住んでいることが証明できる書類を揃えれば、そのカードはもらえるはずなのです。ところが、その手続きに警察に出頭したサンバは、その申請が却下されたばかりではなく、不法滞在で逮捕され、国外退去処分となり、CDG空港に隣接する不法滞在移民収容センターに監禁されます。
 ここで私は移民の置かれている状況について、原作を読んでいるので、こうやって説明できていますが、映画はほとんど何の説明もないのです。なぜサンバの申請が拒否され、国外退去処分になるのか、映画は何も語らない。「アフリカからの移民が警察に捕まる」があたかも何の説明も必要ない、フツーのことであるかのように。
 サン・パピエ支援の市民団体は、人道的な立場からこの不当な移民狩り政策から移民たちを保護し、個々のケースを法廷で救済するための活動をしていて、CDG空港の収容センターにも出入りして、捕まえられた移民たちを援護します。その団体から送られ、サンバの前に現れたのが、学生で弁護士のタマゴのマニュ(演イジア・イジュラン。ジャック・イジュランの娘で本業ロック歌手)と、大会社管理職を休職中でその間この団体でボランティア見習いをしているアリス(演シャルロット・ゲンズブール)でした。
 この「大会社管理職を休職中」というのは、原作にはなく、トレダノ&ナカッシュのオリジナル脚本です(それとサンバとアリスが恋に落ちるというのもオリジナル脚本です)。この一流企業の高級管理職の女性は、我をも忘れる過度な労働の末「バーンナウト」してしまい、心療のために休職していて、このボランティア活動も一種のセラピーの一環なのでした。ここでイチャモンです。高度な教育を受け企業エリートとして育成され、若くして高級管理職にまで昇進し、あまりの激務にキレた、というキャラクター設定ですと、この役にシャルロット・ゲンズブールというのはたいへん無理があります。
 サンバを無罪釈放させようというマニュとアリスの支援活動にも関わらず、サンバの受けた最終処置は、「国外退去命令」を受けたまま、フランス国内に釈放するという不条理なものです。つまりサン・パピエとして泳がせておくということです。よってサンバがこの状態で警察のコントロールに引っかかった場合、逮捕され国外追放になるのです。おまえには何の権利(とりわけ働く権利、医療を受ける権利)も与えないが、隠れて生きろ、というわけです。
 このCDG収容所内で、サンバはコンゴから密航してきたジョナスと出会い親しくなります。ジョナスは仕事や金を求めてヨーロッパにやってきたわけではない。愛する女性グラシウーズと結婚するために命がけの密航をしてきたのです。ところが彼はリヨン駅で警察に捕まり、グラシウーズとも再会できないままです。不条理ながらも釈放を勝ち得たサンバにジョナスは、バルベス地区で美容師をしているらしいグラシウーズを探し当てて欲しいという願いを託します。合点だぜ、兄弟。男気のあるサンバは、自分がサン・パピエで再逮捕される危険も顧みず、バルベスでグラシウーズを探しまわります。難航の末、やっと探し当てたグラシウーズ。あっと驚く魅惑的な女性。サンバはここで越えてはいけない一線を越えて、捕われの友が愛する女性と一夜を過ごしてしまうのです。映画はここのところも軽いエピソードとして描かれていて、シナリオの弱さを感じてしまいます。
 警察の目に怯えながらサン・パピエ状態でパリに生きるということは、合法的なことは何もできないということです。サンバはアリスとマニュのいるNPO団体に行き、どうすればいいのか相談します。その相談室には多種多様多色の大勢のサン・パピエたちが来ていて、サンバと同じことを十人十色の言語でNPOボランティアに問います。このボランティアの多くはリタイア後のおばあちゃんたちで、わけのわからない言語を話すサン・パピエたちとのやりとりをトレダノ&ナカッシュはコント・ギャグ連発集として映し出します。映画館ではやはり笑い声が出ますけど、なんか笑えないシーンですよ。
 そしてサンバの番になって、一体いつになったらこの状態から出れるのか聞きますが、見習い相談員のアリスは1年ほど待ってから再申請するしかないと答えます。冗談じゃない。1年も働かず、収入もなく、どうやって生きていくのか。あんたは俺たちのことを何もわかっちゃいない。サンバは声を荒げて怒りを爆発させます。するとアリスは逆ギレして、サンバの数倍の声量になって、あらゆる野卑な罵り言葉を放って、あんた何様だと思ってんの、ピュタン!メルド!シエ!コナール!の連続絶叫となります。あれあれ?このシーンいつか見たことあるぞ?と思ったら、"NOS JOURS HEUREUX"(トレダノ&ナカッシュ、2006年)の児童ヴァカンス村の新米モニター、キャロリーヌ(演ジョゼフィーヌ・ド・モー)の(↓)これでした。

これがですねえ、シャルロット・ゲンズブールだと、あまりギャグにならないのですよ(苦笑)。というような本性丸出しのシーンのおかげで、アリスとサンバは親密になっていくのですけど。
 サン・パピエで仕事を得るにはヤミ労働しかありません。サンバは他人のIDカードや偽造の滞在許可証を持って、短期労働派遣所やヤミ労働ブローカーから仕事をもらって、建築現場、洗い場、ゴミ分別、夜警、ビル清掃など、あらゆる3K労働に飛びついていきます。その仲間として親友になっていくのが、陽気でオプティミストで優男のウィルソン(演タハール・ラヒム)です。原作本では南米コロンビア人ということになっていますが、この映画では「ブラジル人を装うアルジェリア人」という複雑な設定で、この設定がさまざまなギャグのネタを生むのです。この助演男優はもうひとりの助演女優(マニュ。演イジア・イジュラン)と恋仲になっていきますけど、ちょっと無理矢理なシナリオ展開ですね。
 原作とは異なり(原作にはないことですから)、映画はサンバとアリスの関係の深まりを主軸にもってきます。映画はなんとしても、このストーリーとして見せたいのだ、という強引な軌道修正があります。移民/サン・パピエの実情を照射すると、過度に深刻な社会派映画になってしまうので、それをなんとか薄めにして、笑いでごまかそうという部分があるように見えました。
 しかし、この映画においても、サンバは何度も自分の身分を偽り、自分とは何の関係もない他人になりすます、ということを繰り返しています。その名を呼ばれて、自分が誰だったのかを忘れるほどに。このアイデンティティーの喪失という重大な問題を、映画はあまりにも軽く扱っているのではないか、と思うのです。どんなパピエ(身分証明書)でもパピエさえあれば生きることが許される国では、パピエがアイデンティティーよりも優先的で重要なのです。それがフランスである、という(原作にはある)メッセージがこの映画にはありません。
 ストーリー終部は原作本に従って、コンゴ人ジョナスが再登場します。愛するグラシウーズを探してくれとサンバに依頼していたこの男は、収容センターから出て公式に「政治亡命者」の身分をフランスから与えられ、フランスに滞在するパピエを得ます。そのIDカードを誇らしげにサンバに見せびらかします。このことを祝おうじゃないか、とジョナスはサンバを酒場に誘い、強い酒を何杯もあおります。もう遅いから帰ろう。もう一杯いいじゃないか。そういうやりとりの末、外に出ると、冬の夜の寒さ。寒いとサンバが言うと、そんな薄っぺらい上着じゃだめだ、俺の厚い上着を貸してやるから、おまえのをよこせ、と上着の交換があります(重要なのですけど、映画はさほど強調しない)。寒々としたサン・マルタン運河わきを二人は歩いて行き、ジョナスはたまりかねて「俺がおまえとグラシウーズのことを知らないとでも思ってるのか!」とサンバに襲いかかってきます。二人がもみあって格闘しているところへ、警察のパトロールカーが通りかかり、「そこの二人、何をしている!」。サンバとジョナスは取っ組み合いをやめて、迫り来る警察から逃れようと夢中で運河沿いに駆け出します。 追ってくる警察。目の前には開きつつある運河の水門。この水門の向こうに行けば警察を巻ける。サンバとジョナスは開く水門に飛び移ろうと幅跳びジャンプ。しかしひとりは見事水門に掴まることができたが、もうひとりは水温氷点下の運河にドボン...。
 オフィシャルにはここでサンバ・シッセと名乗る男は死亡するのです。 これ以上は書きません。
 で、サンバとアリスの恋物語はどうなったのか、と言うと、これもよくわからない収拾で、アリスは一流企業の高級管理職として復職してしまうのです(!)。ここもこれ以上は書きません。

 「甘ったるく、リズムのないコメディー(une comédie sirupeuse et sans rythme)」と10月15日付けのテレラマ誌は評しました。同じ日のリベラシオン紙は「息切れ状態の社会派コメディー(une poussive comédie sociale)」と書いています。何か『最強のふたり』で光っていたものが、こんなふうにすれば観客にウケるだろうというルーチンに変わってしまったような感じがあります。富豪と貧者のシンデレラストーリーは、高級エリート女性とサン・パピエアフリカ人のラヴストーリーでは同じ効果が出て来ない、ということなのでしょうか。深刻な原作への深入りを拒否して、軽め軽めで行こうというエディトリアルの問題なのでしょうか。私はそれに加えて、お笑いのキャラクターであるオマール・スィが俳優として出来ることが出し切れてないように見えましたし、シャルロット・ゲンズブールでこの役はないべさ、とも思いましたよ。残念です。

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)『サンバ』予告編


2014年10月15日水曜日

真四角な世界を抜け出して

『マミー』
"Mommy"
2014年カナダ映画
2014年カンヌ映画祭審査員賞
監督:グザヴィエ・ドラン
主演:アンヌ・ドルヴァル、シュザンヌ・クレマン、アントワーヌ=オリヴィエ・ピロン
フランス公開:2014年10月8日 

 最初は字幕です。この映画は原語ヴァージョンで観る人たちはおそらく字幕ばかりに注意が集中するでしょう。映画の中で登場人物たちが話す言語は「ジュアル (joual)」 と呼ばれ、カナダの「フランス語圏」とされるケベックの庶民階層で通用する非常に早口な町言葉です。「フランスのフランス人 (français de France)」とこの人たちはフランス人を呼びますが、そのフランスのフランス人ではこのジュアル語は半分も理解できないそうです。ましてや「フランスの外国人」である私には9割がた理解不能です。そこでこの映画はフランス語字幕つきです。その字幕を見ながら、このファッキングな町言葉("fuckin'"はそのままこのジュアル語に溶け込んでいて、意味も希薄なリズム取りの下品挿入詞でしょう)を聞きますが、(往々にして映画字幕というのはそういうものでしょうけど)字幕はこの雑多で豊穣な言語表現を大幅にはしょっている、ということが私でもわかります。
 さて、最初は字幕です。映画のイントロは字幕で、カナダにある法律が成立したことを告げます。2015年(つまりわれわれには近未来)に成立した(過去形)法律です。 「肉体的あるいは精神的あるいは経済的な理由で子供が社会にとって危険と判断される場合、家族はその子を国立の保護センターに養育委託することができ、その収容には司法手続きを必要としない」というような内容です。全世界的に増加している凶暴な子供、社会順応性のない子供などを国が面倒を見ましょうというものですが、これは合法的な子捨てでもあります。現実味のある近未来SFの始まりのような幕開けです。
 次にADHD(注意欠陥・多動性障害)という病気です。これはSFではなく現実にある障害です。それにはさまざまな障害の出方がありましょうが、この映画に出て来る14歳の少年スティーヴ(演アントワーヌ=オリヴィエ・ピロン)は知能は発達しているものの、過度にセンシブルで激しやすく、極度の興奮から極端な暴力状態に達してしまうのです。
 スティーヴは母親ディアーヌ(通称ダイ = Die。演アンヌ・ドルヴァル)と離れて寄宿施設で生活していましたが、その発作によって重大な問題を起こし、施設を出て行かなければならなくなります。映画は母ディアーヌがスティーヴを施設に引き取りに来るところから始まりますが、行儀も口も悪いこの母親の登場は、早くも映画のディメンションを「闘う映画 」の方向に決定づけます。つまり「不幸」に対して受け身でおろおろするのではなく、体当たりでぶつかっていくしかない姿がもろ見えなのです。このガラの悪さは、スティーヴの素行を見ると、この母にしてこの子あり、の感も否めません。
 夫(スティーヴの父)と死別し、女手一つでこの厄介者を育ててきました。世界でたった二人しかいな母と子は深く愛し合ってはいますが、その限界もあります。スティーヴは自分が信用されない、一個の人間として認められない、という疑念に耐えられない。そう思われたと疑いを抱いた相手には、たとえそれが母親であっても怒りは殺意にまで急上昇して抑えられなくなります。母親は母親で、自分が引き受けた運命とは言え、時にはすべてを投げ出したい衝動にかられることもあります。
 施設に置いておけなくなって、自宅にスティーヴを引き取って、新居に引越して二人生活が始まります。そのおかげでディアーヌは仕事も失ってしまいます。生活苦はすぐにやってくる。おまけにスティーヴの施設での傷害事件の被害者が訴訟を起こし、莫大な損害賠償金が請求されています。お先真っ暗だけれど生きていかなければならない。この映画は肝っ玉母さん物語でもあります。
 ディアーヌとスティーヴの引越し先の道を挟んだ向かいの家に、奇妙な女がいます。夫と娘の3人暮らしをしているこのカイラ(演シュザンヌ・クレマン)という女性は、二人が引っ越した時から自宅窓からこちらを覗き、気にしている風でした。 それがある日向かいの家で、スティーヴが発作的ヴァイオレンスでディアーヌと大乱闘になり、倒された家具で負傷してやっと鎮まったスティーヴの傷の手当をするために、カイラは二人の前に現れたのです。何の説明も必要もなく、瞬時にしてディアーヌとスティーヴのことを理解したように、この女性はこの時から二人の世界に割って入ったのです。
 カイラは情報エンジニアの夫と娘の三人で生きていますが(映画での説明はありませんけど)、不幸なのです。以前は学校教師をしていたということになっていますが、働かなくなって久しいのです。そして(これも理由は説明されていませんが)彼女は言葉を発声することに障害があります。いつから言葉が出しづらくなったのかわかりませんが、職を辞めたのはこのせいなのです。極端な「どもり」状態です。夫や娘に対してもこういう状態なのです。ところが、ディアーヌとスティーヴに対しては、そうではないのです。だんだん言葉が出てくる。ある日スティーヴの甘えた態度が度を過ぎた時、カイラは力ずくで少年の体を押さえ込み、激しい怒りと呪いの言葉をまくしたててしまったのです。スティーヴは恐怖のあまり失禁して、カイラに許しを乞うのでした。その心の叫びがあって、カイラとスティーヴは大の仲良しになります。
 ディアーヌは学校に行けないスティーヴのために、カイラの元教師のノウハウを生かして息子の家庭教師を依頼します。その学習時間を利用して、ディアーヌは働きに出ます。家政婦や掃除婦やその他どんな仕事でも食い付いて家計を支えます。スティーヴはカイラの教授法でどんどん勉強が好きになっていき、試験を通ってニューヨークのジュリアード・スクールに入学したい、という夢まで持つようになります。 映画はここで3人のユートピアを現出させるのです。
 最初に書くの忘れましたが、この映画の画面は特殊で縦横1対1の正方形なのです。だから顔ばかりが強調されて見えます。その上、冒頭で書いたように言葉が言葉なので、字幕を追いかけるのが忙しく、顔と字幕しか見れないような視界の狭さなのです。真四角というのは(この字から受ける印象もそうですが)本当に窮屈で閉塞感がすごいのです。グザヴィエ・ドランが狙ったこの息苦しい画面は、スティーヴ、ディアーヌ、カイラの3人の創り出した至福の瞬間に、その幸せのパワーで押されるようにぐ〜〜〜っと横に拡がっていき、16対9の映画画面になっていくのです。これはアベル・ガンスの映画『ナポレオン』(1927年)で途中で画面が3面のシネラマスコープ化して観る者の度肝を抜いた、かの映画のマジックと同じ系列のものでしょう。まさにマジックな瞬間です。
 この横長画面の幸せは、3人がリアルに束の間の休息を満喫している時に一回、そしてスティーヴが見事にジュリアード・スクールに入学できたり、結婚して子供ができたり、という想像の上での幸福の映像の時に一回。たった2回しか見ることができません。そして現実は3人のユートピアに対して破壊的で残酷で、画面はすぐに真四角に戻されてしまうのです。
 ディアーヌは夫の死後もそのまま老いるにはまだ若すぎるし、「きみはきれいだよ」と言われると全く悪い気はしないのです。ところがスティーヴにはそれが耐えられない。ディアーヌの(まだ男友だちにもなっていない)(職業が弁護士なのかどうかもわからないけれど、スティーヴの傷害事件の損害金請求のことでディアーヌが相談している)男とのレストラン〜酒場でのデートに同行したスティーヴは、ディアーヌが母親ではなく「女っぽく」なっていくことにがまんがならなくなります。そのイライラを抱えたまま、カラオケのステージに立ち、アンドレア・ボッチェリの歌を朗々と歌おうとしたのですが、その場にいた酔漢たちに邪魔されたり、バカにされたり...。ここでスティーヴは極端に凶暴なADHDスティーヴに逆戻りしてしまうのです....。
 ユートピアが崩れ、何もかもうまくいかず、ディアーヌは限界を越えたと判断して、遂に、かの2015年法に助けを求めることになるのです....。

 当年25歳、映画界の新アンファン・テリブル呼ばわりされているグザヴィエ・ドランの5作目の長編映画です。時事性も社会性も盛り込んだ、パワフルでヒューマンでエモーショナルでマジックもある2時間14分映画。私は泣きましたとも。それぞれがめちゃくちゃな問題ばかりを抱えた3人が寄り合ってできた一瞬のユートピア。こんな夢になかなか出会えるものではないでしょう。だから映画はマジックなのでしょう。

カストール爺の採点:★★★★★

(↓)グザヴィエ・ドーラン『マミー』予告編


2014年10月13日月曜日

忘却とは忘れ去ることなり

フレデリカ・アマリア・フィンケルステイン『忘却』
Frederika Amalia Finkelstein "L'Oubli"


 現在23歳の哲学科女子大生の初小説です。原稿をさまざまな出版社に送りつけたところ、ガリマール社のアルパントゥール(測量技師の意)叢書編集部の目に止まり、出版のはこびとなりましたが、出たばかりの時にノーベル賞作家ジャン=マリー=ギュスタヴ・ル・クレジオから熱烈な賛辞の手紙を受け、たちまち今期のルノードー賞の候補となっています。お立ち会い、ル・クレジオのお墨付きですよ、ただ事ではないでしょうに。
 この小説は、単に私が慣れ親しんでいない若い世代のエクリチュールというだけの理由ではなく、私はその波に乗るまでにずいぶんと時間がかかりました。読み始めから読み終えるまで2週間かかりましたから。文中に出て来るように、この作者はイヤフォンには常にダフト・パンクがあり、飲み物と言えばコカ・コーラかペプシ・コーラで、プレイステーションなどのゲームで熱中的な時間つぶしをします。文中に最も登場する音楽は「ワン・モア・タイム」(ダフト・パンク)です。これは小説の中で無機質的なロボット音楽という揶揄的な使われ方をしているわけではなく、あきらかに何かの呼び声なのです。作者が書いているように、これは完成度の高い音楽だと私も思っていました。何かを喚起する音楽であるのです。
 この小説はフランス語で「ロマン(roman)」と冠されていますが、筋に乏しい、一人称で綴られる長いモノローグであり、省察録エッセイと言ったほうがいいかもしれませんが、錯乱的で混沌とした最終部のアドリブ的大団円は、やはり「小説」の醍醐味と言わざるをえません。
 アルマと名乗るこの小説の話者は、孤独で、身内と言えば、パリ左岸に住む弟バルタザールだけで、両親はフランスを去ってアルゼンチン(ブエノスアイレス)に移住してしまっています。学生としてひとりでパリ11区に住んでいますが、不眠症で、夜明け前から町を徘徊するクセがついています。夜明け前に弟のバルタザールのところまで行って、一緒にプレイステーションでゲームを楽しみ、夜が明けたら一緒に朝食を取りたい。しかしその願いは果たせず、バルタザールはどこかに出ていってしまっていて不在でした。不眠症の娘はしかたなくパリの町を歩いて縦断し、ダフト・パンクをイヤホンで聞き、ペプシ・コーラ(あるいはコカ・コーラ)を飲み、混沌とした思念をぐるぐると回転させながら、パリの西の端であるオトイユ競馬場までたどり着くのです。
  その道々の独白は、この20代前半の女性が実存の危機的状態に陥っていて、この状態から抜け出して生き延びるためには「忘れること」だけが唯一の道であると考えています。それは、ショアー(Shoah)、ホロコースト、ナチスのユダヤ人絶滅政策のことです。ナチスのために6年間に6百万人のユダヤ人が虐殺されました。アルマはその民族の子孫です。その祖父はポーランド系ユダヤ人で、第二次大戦が始まる前に、ナチスの台頭に危険を感じて海外への逃亡を試み、偶然に乗り合わせた船でアルゼンチンに渡っています。アルマが一度も会ったことがないこの祖父の逃避行のおかげで、今日アルマはこの世にあるのです。この祖父がいなければ根絶やしにされた夥しい数のユダヤ人同様、「私の現在」は存在しない。言い換えれば「私の生」はショアーと直接に繋がっている。話者はその記憶を否応無しに背負ってしまっている。貨物列車、収容所、ガス室、人体実験....。ひとつの民族を絶滅させるという政策がまかり通った時、人間性はネズミのレベルになった、と話者は考えます。実際にユダヤ人たちはネズミの大群が殺されるように、処理されたのです。
 ではネズミのレベルまで落ちてしまった人間性は、ヒトラーが死に、連合国がナチスに勝利して第二次大戦が終ったことによって、再び元のようになったか、というとそれはないのです。「私はヒトラーを根絶できなかった世界に生きている」(p83)と話者は言います。ヒトラーが死んだということで連合国が勝利したというのは大いなる幻想である、われわれは1945年に敗戦したのである、という論です。その部分以下に訳します。

(1945年)4月30日、午後3時半頃、赤軍が要塞の数百メートルのところまで接近していたにも関わらず、アドルフ・ヒトラーはエヴァ・ブラウンを道連れにして自殺する。ヒトラーは自分の口の中に弾丸を撃ち込み自らの命を絶った。
 アドルフ・ヒトラーは自らの死の時期を決めていた。私たちは彼に自殺することを許したのだ。故に私たちは彼にその勝負を勝たせたのだ。チェックメイトだ。アドルフ・ヒトラーは死んでいないし、蒸発もしていない。もしも連合軍によって殺害されたのであれば、アドルフ・ヒトラーは確かにこの世から無くなっていただろう。だが彼の自殺は歴史を混乱させる。
 アドルフ・ヒトラーの自殺は小さな事ではない。それは最も高度な重要性を持っている。自殺すること、それは死ぬことではない。自殺すること、それは蒸発することではない。自殺すること、それは短絡を生じさせることである。アドルフ・ヒトラーはそれを知っていた。それゆえに彼は口の中に弾丸を撃ち込んだのだ。もしも連合軍がアドルフ・ヒトラーを殺したのであれば、私たちは1945年に戦勝していたのだ。(....) 。私たちはこの自殺によって第二次大戦に敗れたのである。(p83-84)

 ちょっと繰り返しの多い文ですが、そのまま訳しました。ヒトラーを仕留めることができなかったゆえに、ヒトラーは消滅せず、ナチズムは消滅せず、ユダヤ人絶滅計画は消滅していないのです。アルマの不眠症は、この消え去ることがなかったホロコーストの影に襲われるからなのです。消し去ろうとしても決して消し去ることができない。話者は、もういいかげんこのことにケリをつけたい、このことから解放されたい、と望んでいます。
 その解決が忘却なのです。忘れ去ってしまうこと。ヒトラーやショアーのことなど忘れてしまえばいいのです。
 小説の中で、アルマはアドルフ・アイヒマン(1906-1962)の孫娘マルタ・アイヒマンとパリ11区オーベルカンフ通りのレストランで夕食を共にします。ユダヤ人絶滅政策を指導し、数百万のユダヤ人を収容所に送ったアイヒマンは、戦後亡命先のアルゼンチンで捕まり、1962年にイスラエルで絞首刑に処されます。その孫娘は、自分の祖父の名前は知っていても、祖父が作った収容所の名前など知らないのです。最も有名なかのアウシュヴィッツでさえ、「アウシュなんとかでしたっけ?」と言う始末。すなわちこの女性は忘却してしまっているのです。ゆえにこの21世紀に平気で生きられるのです。
 この忘れてしまった側の平静に憧れながらも、アルマは最終的に忘れることができない人間であることを自覚します。それはショアーのことだけでなく、自分の極私的な体験についても忘れることができないのです。例えば、十代の頃に死につつある愛犬エドガール(ラブラドール犬)の最期を待たずに、「短絡」して殺して、その遺骸をスポーツバッグに詰めて、人目を忍んでコンピエーニュの森の奥深くに埋葬してしまう、というエピソードが挿入されます。ナチがユダヤ人に対して機械的に殺害ができたように、アルマも何の情緒的痛みもなく愛犬を「処理」できたということは、記憶として離れることができません。
 その他に叔父が馬主となっていた競走馬ヴォルフガングのエピソードも読ませる話です。叔父が全財産をかけて育てた障害走競馬用の馬ヴォルフガングは、年に一度のオトゥイユ競馬場のメインレース、グラン・スティープルチェイス・ド・パリに出馬し、1位を走りながらも最終近くの障害をジャンプした時に騎手を振り落としてしまい、脚を折って、優勝を逃します。叔父は破産し、ヴォルフガングは屠殺されます。こういう残酷をアルマもまた生きてきたのです。それはインターネットやパソコンゲームの世界とは違う、つまりヴァーチャルではなくリアルの世界の体験として忘却することなど絶対できないことなのです。
 忘却を望みながら、アルマは何一つ忘れることができない。この苦しみがややもすればサルトル/カミュ的な実存的エクリチュールとなった痛々しい独白として心打ちます。忘却をあきらめること、この痛みを受け入れて生き続けること、 その賭けを最後にオトゥイユ競馬場でするのです。大障害走レース、グラン・スティープルチェイス・ド・パリにアルマはかのヴォルフガングに似た(あるいは単に頭文字が"W"で始まるという理由だけなのかもしれない)ヴェルテールという馬にすべてを託します。小説の最終の約20ページは、アルマが解き放たれるためのレースの描写になります。これはすごいです。錯乱的なアドリブも含めて見事な筆致です。競馬(私は一度も競馬を体験したことがありませんが)のセンセーションとアルマの生きるか死ぬかのせめぎ合いが交錯する素晴らしいパッセージです。勝った負けた?そんなことどうでもいいのです。アルマはこうして忘却することを断念することができたのですから。

カストール爺の採点:★★★★☆

FREDERIKA AMALIA FINKELSTEIN "L'OUBLI" 
L'Arpenteur (Gallimard)刊 2014年9月  174ページ   16ユーロ

↓フレデリカ・アマリア・フィンケルステイン、自著『忘却』を語る

 
 

2014年10月10日金曜日

作詞家モディアノの妙


 
Francoise Hardy "Soleil"(1970)
フランソワーズ・アルディ『ソレイユ』(日本題『アルディのおとぎ話』日本発売1973年)

 トリック・モディアノ様、ノーベル文学賞おめでとうございます。モディアノ読みの端くれとして心からお喜び申し上げます。
  1945年生れのモディアノの小説群のすべての源流となっている家族(父親)との問題、暗い子供〜少年時代があり、それを吐き出すように文字の世界に入っ ていくのですが、広告や新聞雑誌の記事という文字の仕事の体験に混じって、作詞という実験もありました。1968年に最初の小説『エトワール広場』で作家 デビューする前のことです。パートナーはリセ・アンリ・キャトル(パリのエリート高校です)の旧友でミュージシャンのユーグ・ド・クールソン
 この人は1973年にガブリエル・ヤクーブと共にプログレッシヴ・フォーク・グループ、マリコルヌを 結成し、90年代にはバッハとアフリカ(アルバム"Lambarena")、モーツァルトとエジプト(アルバム"Mozart L'Egyptien")、ヴィヴァルディとケルト(アルバム "O'Stravaganza")といったクラシック+ワールドフュージョンで知られるようになります。作詞モディアノ、作曲ド・クールソンの作品がオフィシャルに発表されるのは 1979年のことで、ユーグ・ド・クールソンのアルバム『1967年の抽斗のすみっこ (Fonds de tiroir 1967)』(2005年にCD再発)です。それまでは駆け出しの作詞作曲コンビとして、レコード会社や歌手たちにデモ売り込みをしていたのですが、それに注目した数少ない人のひとりがフランソワーズ・アルディでした。アルディが取り上げた最初の曲が「驚かせてよ、ブノワ (Etonnez-moi, Benoît !)」で、フランソワーズのアルバム『さよならを教えて (Comment te dire adieu ?)』(1968年)に収録され、シングル化もされ、今日まで「作詞家モディアノ」の最も知られた曲になっています。

 それから2年後に、アルバム『ソレイユ』(1970年)のためにフランソワーズ・アルディは二人に協力を依頼するのですが、それがこの「サン・サルバドール」なんですね。『ソレイユ』は私の好きな英人コンビ、ミッキー&トミー(ミッキー・ジョーンズ&トミー・ブラウン)が目立つアルバムなので、よく聞いてましたが、聞く度にこの曲は飛ばしてしまうという感じで毛嫌いしておりました。なんでこんな曲をカヴァーするんだろう、と思ってました。曲はもとはスペインのトラッド曲で、ルネ・クレマン映画『禁じられた遊び』(1952年)のテーマ曲としてナルシソ・イエペスが演奏し、たちまち全世界のギター初心者の避けて通れない練習曲となった「愛のロマンス」です。少年の日にギターを持ったことがある人なら、おそらくあまり思い出したくないメロディーでしょうし、そうでなくても初心者の下手なギターでこれを聞かされた分には耳を覆って逃げ出したくなる気持ちになるでしょう。禁じられてほしい、と思ってしまいますよ。ま、それはそれ。このメロディーにパトリック・モディアノ(当時新進作家)が詞をつけたのが「サン・サルバドール」なのです。

夜の間に
冬が戻ってきた
今日、通りの木々が
すべて枯れてしまった
雨の音を聞きながら
あなたはその国のことを想う
その名はサン・サルバドール
目を閉ざすと
あなたの記憶によみがえる
不思議な庭園
そこでは毎朝
幾千もの香りと
青い蝶々が舞い上がる
それがたぶんサン・サルバドールだったのね
サン・サルバドール
あなたはその名を繰り返す
その薄紫の黄昏の反影と
宝の島から港に戻ってきたたくさんのガリオン船を
もう一度見たくて
どうやってそこに帰っていくのか
あなたはもう覚えていない
その国が本当に存在したのかどうかも
誰も知らない
あなたがサン・サルバドールを知ったのは
あなたの夢の中でだったのか
あるいはあなたの前世でだったのか
サン・サルバドール
雨の音に混じって
風が窓を打ち付ける
あなたはその残響を聞く
それはあなたが二度と見ることができない
あの国から聞こえて来る
失われた歌

 訳してみて初めてわかる。これは正真正銘のモディアノ・ワールドなのでした。記憶にあるようでそれが何だったのかわからない、狂おしい不確かさ、これがノーベル文学賞に値するんです! モディアノさまさま。素晴らしい詞。誰かこれに違うメロディーで作り直してくれないだろうか、と願うのは私だけではないでしょう。

(↓)フランソワーズ・アルディ「サン・サルバドール」