2013年11月29日金曜日

発車オーライ、明るく明るく走るのよ

 Anne Sari "La Porte !"
アンヌ・サリ『ラ・ポルト! -  ある女性バス運転手の意外な告白』


 イトルの出典は1957年の歌謡曲『東京のバスガール』 (作詞:丘灯至夫 / 作曲:上原げんと / 歌:初代コロムビア・ローズ)です。その歌詞の3番を以下に引用します。
 酔ったお客の 意地悪さ
 いやな言葉で どなられて
 ホロリ落とした ひとしずく
 それでも東京の バスガール
 「発車 オーライ」
 明るく明るく 走るのよ
バスの車内で起こることはこの歌から半世紀以上経った今も、さほど変わっていません。路線バスの車掌という職業はこの世から無くなってしまいましたが、それ以来運転手がすべての仕事をしなければならなくなりました。本書の著者はリヨン市の公営バスの女性運転手です。女性だからと言って夜間や早朝の仕事がないわけではなく、フランスの大都市郊外というセキュリティー的におおいに問題のある地帯の路線を深夜に走行したりということも日常的にあるのです。酔ったお客なんて序の口で、さまざまな脅威にさらされながら、ほとんど無防備な状態でハンドルを握っているわけです。
 アンヌ・サリは、この『東京のバスガール』 の歌詞のように、この仕事でかなりの量の涙を流しています。筋骨隆々たる男ですら、この仕事は大変だと思いますよ。路線バス運転手。しかも並のバスじゃない。「連接バス」と呼ばれる2両編成。全長18メートル、重さ28トン。二つの車両のつなぎ目が蛇腹になっていて、ここが間接部になっていてカーブする時に蛇腹が開いたり閉じたり。フランスのバス業界用語では、この蛇腹バスをかの高名な民衆アコーディオン奏者に因んで「ヴェルシュレン」と呼ぶそうです。フランスっぽい洒落た異名ですね、なんて感心している場合ではない。この怪物バスを女性ひとりが運転し、渋滞や工事やらさまざまなイレギュラーのある道のりを安全に走行し、車内にトラブルがないように監視し、老人や体の不自由な人たちを固定した安全な場所に座らせ、土地に明るくない乗客の道案内をし、なじみの乗客の話相手になってやる....なんてことを全部するのですよ。
 この本は300ページあります。書きたいことが山ほどあったのでしょう。まず最初に、よくこんな本が世に出たものだ、という驚きがあります。「女性バス運転手の手記」、これだけ見て、誰が「へえ?面白そうだなぁ...」と思うでしょうか。バスのことなんか私たち市民の日常にあまりにも密接で、その中で起こっていることなど毎日見ているようなもんじゃないですか。一流航空会社の国際長距離便のパイロットや客室乗務員であったらまだしも、多少興味深い話が期待できるのではないか...と思うのが人情ではありませんか。
 アンヌ・サリはまさしく、そういう夢と希望を若い日に抱いていて、彼女はフランス国営航空会社エール・フランスに就職しています。年齢をバラしてしまうと、彼女は今日50歳を過ぎています。私が若かった頃も、アンヌが若かった頃も、航空会社はたいへん華やかな職業でした。ところがいろいろありまして、特に21世紀に入る頃から、民営化やら、系列会社(チャーター、ローコスト、海外県専門...)分離や再統合・合理化・リストラなどの末、アンヌは名刺の社名がエール・フランスから何度も名前が変わります。空の会社と思って就職したのに、結局レユニオン島(フランス海外県)の地上勤務を長年こなした挙げ句、空とは縁のない状態で会社を去り、フランス本土に帰ってきます。
 再就職はやはり自分の経験に適合したものと思うものの、そんな職はありっこないのです。これは本を読み進むうちに徐々にわかっていくのですが、3人の子供たちは大きくなって手がかからなくなっている。しかし長年連れ合った伴侶とは全くうまく行っていない。家族が5人だった頃の家は売りに出され、それぞれが散り散りになる。そんな状態でアンヌはフランス第三の都市、リヨンに身ひとつでやってくるのです。すなわち、アンヌはその50歳台のある日に、人生の一からのやり直しをリヨンでやってしまうのです。誰からも強いられたわけではなく、リヨン市交通営団の募集に応募して、「え?女で?」、「え?その歳で?」といった人の目をものともせず、アンヌは採用され、数ヶ月の技能訓練を受けて、晴れてバス運転手としてデビューするのです。
  "La porte !(ラ・ポルト!)"は、フランスのバスの中で非常に頻繁に聞く言葉、と言うよりは叫び声ですね。状況としては乗客が次の停留所で降りたいという意思表示の停車願いボタンを押して、バス中央部の降車専用出口に向かい、バスが停車するのを待っています。これはバスの安全のための絶対のまもりごとですが、運転手はバスが完全に停止するまで絶対に出口ドアを開けません。これはみんなリスペクトする。ところがこのドア開放が、完全停止から1秒も遅れてしまったら、間髪を入れずに「ラ・ポルト!」という叫び声が運転手席に向かって飛んでいくのです。ほとんど怒号です。「ドアを開けてください(Madame, ouvrez la porte s'il vous plaît)」なんていうニュアンスなんてない。シルヴプレなど付け加えられるわけがない。ただ一言「ドア!」。(ドアっつってんだろ、すかたん!)、 この侮蔑のこもった命令語を運転手はかしこまって受け止め、速やかにドアを開けなければならないのです。運転手としては最も言われたくない言葉でしょうね。
 この何事にも耐えて「明るく明るく走るのよ」と自分に言い聞かせている女性運転手の手記ではありません。彼女の日々のストレスたるやたいへんなもので、悔し涙を流すのは日常茶飯事、特にこの本が多くページを割いているのは、バス会社の管理体制、組織、上司や同僚との関係、労働条件などのことで、彼女の筆致は告発的で、さまざまなインタヴューで「あとでどんなことになるかわからないけれど、書かずにはいられなかった」と述懐するように、組織と「落とし前をつける」覚悟も見られます。ハイテクシステムを駆使した中央管理部から見れば、この区間は何時から何時の間は何分で走行でき、何人の乗客を収容できる、というような統計データに基づく理論的数値を達成できなければ、やっぱり運転手として適合性に欠けるという評価が待っています。公営バス会社としても数字を上げなければならないわけですから。ところが現場は、老朽車両や、整備員不足で点検の曖昧な車両でも回していかなければならないほど、運航スケジュールはギチギチで組まれている。その上天気の良い日ばかりではなく、急変して強風や豪雨になったり、雪や路面凍結があったり、無届けのデモ行進があったり、気まぐれな大統領や大臣の抜き打ち訪問があったり.... そしてバスでも人身事故や接触事故を起こすのです。紙に書いたようにすべてが理論通りに履行されることはない、とわかりつつも会社上層部はそれに限りなく近づくことを要求するものです。彼女は自分の身を守るために、労働組合に加盟し、まだまだフランスにもある「女のくせに」という蔑視にもめげず、ある種の論客としての立場を獲得していきます。あたりまえでしょう? その辺の若造よりはずっと職業経験や人生経験が多いのですから。
 だいたいにおいて、人の命を預かるという重要な責任において、長距離国際線旅客機のパイロットとバスの運転手に何の違いがあるのでしょうか? 副操縦士がついたり自動操縦に切り替わったりする前者の仕事に対して、後者は全部マニュアルで操縦し、乗客の応対をし、チケットを売り、渋滞にイライラし、遅れを咎められ、「ラ・ポルト!」と怒号を浴びせられ... 旅客機パイロットとバス運転手ではどれだけ給料格差があると思いますか?
 ま、言い出したら切りのない職業上の愚痴は、本書で十分読まされることになりますが、この本のたまらない魅力は、アンヌ・サリがこのバスという空間の中で出会うたくさんの人間たちの描写です。アンヌが運転するリヨン市と郊外のヴェニシューを結ぶC12という路線には、市街地もあれば、郊外高層住宅区もあれば、ロマの野営地もあれば、精神病院も刑務所もある、というカラフルさです。そういう路線で彼女はさまざまな人生と出会い、交流していきます。
 フランスのバスの最前部の左側部分は運転手ボックスです。その右側には乗り口ドアがあり、検札マシーンがあり、パスを通したり、チケットのない人は運転手からチケットを買ったりする、フロントガラス続きの立ち席ゾーンがあります。フランスのバスでは、ここに立って、道々運転手と親しげにおしゃべりをしている人を見ます。かつてはバス利用規約として「運転手と会話をすることは禁止」と大きく張紙されてたこともありましたけど、誰も気にしていません。このフロントガラスにへばりついた道々のおしゃべり相手のことを、バス業界の用語では"poisson-pilote(ポワソン・ピロット)"と呼びます。これは良い訳語が見つからないのですが、鮫のような大型の魚に密着して泳いでいき、おこぼれを頂戴するコバンザメのような魚のことだと思います。大きなバスの横にへばりついて、道先案内(pilote)をしているように見えるからでしょう。このポワソン・ピロットたちがアンヌにさまざまな人生を語ってくれるのです。
 刑務所に面会に行く女性たち、刑務所から仮出所でシャバに出る男、精神病院に通院する人たち、ロマのキャンプに出入りする人たち、ラマダンの時の疲れた男たち、ニカブを着衣して他のイスラム教徒を罵倒する女、墓参りを日課とする老寡婦の人生話....いろいろな人生をバスは運んでいます。アンヌのエクリチュールはユーモアと皮肉と人間愛にあふれ、その名調子はジュリエット・ヌーレディンのシャンソンにも似ていますし、本書の中でもアンヌと出会っているのですが、 大失業時代に職業経験のない女性がノルマンディーの港町で掃除婦として働くという潜入体験記ウィストレアム河岸のジャーナリスト、フローランス・オブナの辛辣ながらウィットのある観察眼にも似ています。
 ラジオRTL のインタヴューで、「文学やジャーナリズムの経験がないのに、よくここまで書けましたね」みたいな大変失礼な質問があり、ここにまた「バス運転手」という職業を低めに見てしまう人の目があります。それに対してアンヌは「学歴や教養がなくても文章は書ける」ときっぱり答えています。 これはわれわれ市井のブロガーたちの言葉でもあります。
 サン・ジャン・ド・デュー病院の前に鎮座するジグムント・フロイトの銅像とアンヌ・サリとのツーショットがこの本の表紙です。フロイト像には有名な診断用の長椅子がついていて、そこは病院内の散歩者の休憩所になったり、夜にホームレスの人が一夜の宿になったり。アンヌはそこに時々フロイト博士に話を聞いてもらいに行くのです。揺れる50歳女の波乱の日々を語りに行くのです。この女性は素晴らしいです。抱きしめたいです。

ANNE SARI "LA PORTE! - CONFESSIONS INATTENDUES D'UNE CONFUCTRICE D'AUTOBUS"
MICHALON 刊 2013年10月9日  300ページ  18ユーロ


2013年11月24日日曜日

ゲンズブール映画と思ってもらったら困る

『パリは実在しない』
1969年フランス映画
"Paris n'existe pas"
 監督:ロベール・ベナユーン
主演:リシャール・ルデュック、ダニエル・ゴーベール、セルジュ・ゲンズブール


 寺山修司の1974年の映画『田園に死す』 で、バーで飲みながら木村功が菅貫太郎にこんなことを言います:
ボルヘスは言ってるじゃないか。5日前に無くした銀貨と、今日見つけたその銀貨とは、同じじゃないって。ましてやその銀貨が、一昨日も昨日も存在し続けたと考えることなんて、どうしてできるんだい?

  おいおいおい、このボルヘスって誰なんですか? 映画は逆に「おまえはボルヘスも知らないのかい?」と観る者を試すようなところもあります。寺山のこの映画でこのシーンがどれほどの重みを持っているのかは別として、こういう引用や衒学的なレトリックは私はとても苦手です。画面が見れずに下に流れる字幕だけについていかなければならないような映画に似ています。おまけに私は字幕を読むのが遅く、読み終わる前に字幕が消えてしまうのです。ちょっと話がそれました。ロベール・ベナユーンの『パリは実在しない』 は、映画の最後に、ジェネリック(クレジット・タイトルのスクロール)の前に、文字でこういう4行が映し出されます。

時間は私を構成する要素である。
時間は私を連れ去っていく流れであるが、私は時間である。
それは私を咬み千切る虎であるが、私は虎である。
それは私を焼き尽す火であるが、私は火である。
      ー ホルヘ・ルイス・ボルヘス

 わお、またボルヘスですか? これは私たちフランスにいる人間たちには、バカロレア(大学入学資格試験)の哲学の試験問題のようだ、と頭が痛くなるような引用文に見えます。しかし、よく読むとそれほど難しいことを言っているわけではない。人間は時間と共に生きることを余儀なくされているわけですが、時間によって翻弄されようが、時間によってひどい目にあおうが、時間は自分の外にある見えざる力なのではなく、自分に内在するものなのだ、ということでしょう。他人と同じ時間を共有していると錯覚してはいけない。時間は自分だけのものなのです。自分が死んで無くなった時に、時間もまた無くなってしまうのです。 
 この時間は自分だけのもの、と思ってしまったら、ひょっとしてこれは自分の五体と同じように自分でコントロールできるのではないか、なんてことを考えるようになります。つまり時間を一定の速度の一方向への流れであることをやめさせて、過去・現在・未来を自由に統御できないものだろうか、という願望ですね。このテーマは古くから多くのSF小説やSF映画を生み出してきました。『ふしぎな少年』(手塚治虫 1961年)、『時をかける少女』(筒井康隆 1967年)など挙げたらきりがありません。
 映画『パリは実在しない』 は、インスピレーション枯渇期にある若い画家シモン(リシャール・ルデュック)が、ある夜のパーティーで知らずに喫った幻覚剤がもとで、過去と未来を視覚化する能力を得てしまう、という話です。制作年が68年です。このような設定の映画では、私たちはSF映画などで後年、特撮やCGなどを駆使した「見えないものが見える」ファンタスティックな映画表現をたくさん見ることになるわけですが、68年の低予算独立映画の表現では、え?っと驚くようなシンプルな描かれ方(例えば、柱時計の針がぐるぐる逆にまわる)です。それはともかく、シモンは現在にありながら、人には見えない過去と未来が見えてしまうようになります。最初は当惑していたシモンも、次第にこの能力をコントロールできるようになり、混乱状態で現れていた過去と未来の「幻視」を、自由に見たい時点の過去と未来を視覚化するまでに至ります。ところが、現実の「現在」の世界にいる恋人アンジェラ(ダニエル・ゴーベール)と親友のローラン(セルジュ・ゲンズブール)は、このシモンの状態を「幻覚」「幻視」またはスランプ時期のノイローゼのように見なし、早く現実の世界に復帰せよと諭そうとします。現実の世界と人々との溝は深まっていきます。
 さてここでこの映画におけるセルジュ・ゲンズブールのポジションです。一言で言うならばディレッタント・ダンディーです。ブリティッシュなテイラード・スーツ、手には(あるいは口には)いつもシガレット・パイプ、隣りには美女、上からの目線で芸術論をよどみなく語る趣味人、そんな感じです。フリルつきのシャツで出て来るシーンもあります。観念的で衒学的で引用の多い語り口です。だから、ローランとシモンのダイアローグに私はほとんどついていけないのです。「なんだボルヘスも知らないのか」と言われているような気分になります。
 ロベール・ベナユーン(1926-1996)は40年代からシュールレアリスム運動の渦中にいた人で、作家・脚本家・文芸評論家・映画評論家・映画俳優でもあり、映画監督としてはこの『パリは実在しない』(1969年)と"Sérieux comme le plaisir"(1975年。あえて訳すと『快楽のように真剣』。ジェーン・バーキン、リシャール・ルデュック主演。音楽がミッシェル・ベルジェ)の2作しか発表していません。バイオグラフィーを読む限りでは、シュールレアリスム的審美観の論客として評論活動がこの人の本領であるようなので、わかりやすい映画など作るわけがない、というのは了解できます。この映画ではそのダンディー的な部分を俳優セルジュ・ゲンズブールが体現していたと言えるのでしょうが、私には言っていることがよくわからん、というイライラがあります。
 さて映画はシモンが視覚的な「過去へのトリップ」を自由に操れるようになり、シモンが住んでいるアパルトマンの1940年代にタイムリープし、そこに住んでいた麗しい婦人フェリシエンヌ(モニック・ルジューヌ)にほのかな恋心を抱く、というところまで行ってしまいます。恋人アンジェラは遠くまで行き過ぎたシモンをなんとか引き戻そうとするのですが...。
 では『パリは実在しない』 というタイトルはこの映画では何なのでしょうか?映画の1時間13分めにシモンがアンジェラにこう言います:
すばらしいことさ。
(何がすばらしいの?)
パリは実在しないんだ。
(どういうこと?)
きみと僕は継続的に存在する。だけどパリはその背景でしかなく、いつも姿を変えている。だけど僕らは永遠なんだ。僕らの周りで世界はバラバラになろうが、僕らは動かない。僕らは僕らの道を断念しない。
おわかりかな? 常に姿を変えてばかりいるもの、それは実在しないのです。われわれは動かない。だから実在するのです。だんだん禅問答っぽくなってきました。そして1時間28分めにローラン(=ゲンズブール)が、「ある有名なイギリスの詩人がこう言ったんだ」と前置きしてこう言います。
時は過ぎ行く、というのは間違いだ。
時は留まり、われわれが過ぎ行くのだ。
こんなこと言われましても、ねえ...。

 68-69年という動乱の時期でもあり、私はこの映画を観る前になにかその時代の空気をこの映画に期待していたと思います。旧時代の秩序や道徳と異なるもの、反抗的なもの、サイケデリックなもの、例えばバルベ・シュローダーの『モア』(1969年)みたいな。ところが、『パリは実在しない』はシュールレアリスティックでスタイリッシュで観念論的な映画でありました。サイケデリックという点では、セルジュ・ゲンズブール(作曲)+ジャン=クロード・ヴァニエ(編曲)というコンビによる音楽はその期待に十分応えてくれます。このコンビの初の共同作業だそうですが、この3年後、このコンビは大傑作『メロディー・ネルソンの物語』を制作することになるのですよ。

カストール爺の採点:★★☆☆☆

Paris n'existe pas (un film de Robert Benayoun 1969)
DVD 93分 (+ ボーナス 30分)

言語:フランス語
DVD XIII Bis Music EDV2567
フランスでのDVD発売:2013年11月


(↓『パリは実在しない』予告編)


2013年11月19日火曜日

私たちの望むものは

Various Artists "Mobilisation Générale - Protest and Spirit Jazz from France 1970-1976"
V/A 『総動員 - プロテスト&スピリット・ジャズ・フロム・フランス 1970-1976』

 「1968年、フランス株式会社で火災発生、建物全体が倒壊寸前にある。人々は何の救おうとはしない。崩壊した旧世界の瓦礫の中から、マルクスとコカ・コーラの子供たちが姿を現し、青白赤の三色旗から青と白を引き裂いてしまう。大気は赤く、音楽はもはや人々の暮らしを和ませたりはしない。大工事が始まる」(クロヴィス・グーによるライナーノーツの冒頭11行)

 とりわけ「70年代は何もなかった」と思っている諸姉、諸兄へ。

 私の現役時代です。オイルショックで高度成長が終わり、ベトナム戦争が終結し、新左翼運動が衰退し、「いちご白書」見てみんな会社に就職した時期でした...が。68年〜69年に乗り遅れた人たちが、もうみんな終わってしまったんだ、と「シラケ」を決めていたんですけど...。私は73年に東北から東京に出て仏文科生になり、ジャズ喫茶に入り浸り、時々デモ(狭山闘争、三里塚闘争...)に行き、同人誌を発行し、中央線上の店々でやっていたヘンテコなロックコンサートに顔を出し、友だちのロックバンドのために詞を書いていました。「なんにも終わっていないんだぞ」と息巻いていました。そして76年に初めてフランスの地を踏んだのです。 初めて着いたノルマンディーでフランスは「なんにも終わっていな」かった。
 闘争ということで言えば、日本にいた頃は敗北感が圧倒的で、あれも負けた、これも負けた、なぜ人民は動かなかったのか、みたいな話が、早くも70年代で新宿の飲み屋で平気で大声で語られたりしてちょっと辛かったですね。ところが68年5月革命は、大多数のフランス人にとって美談になってしまっていたし、服装も風俗も68年を境にまるで変わってしまったのです。具体的には大学寮の女子専用棟に男子が出入りできるようになってしまった(私はしょっちゅう泊まりがけでお世話になりました)。76年、私が初体験したフランスはおおいに行儀悪く、煙っぽく、(留学生だったので)女の先生たちはやたらセクシーに見えたし、男の先生たちはみんな長髪ひげぼうぼうだった(ような気がする)。
 しかし当時のフランスの若者たちには「徴兵制」という 重い責務があり、彼らにはインドシナ戦争もアルジェリア戦争も非常に近い記憶であり、軍隊にとられて戦地で死ぬかもしれない、という不安は常にありました。ある日大統領が「国民総動員! Mobilisation générale !」とひと声を発すれば、そうなっちゃう。彼らの反戦・反軍運動は往々にして戦時の日本のように「非国民」のそしりを受けることになる。(このコンピレーションにも反戦・反軍のトラックが3曲)
 1971年、時の防衛大臣ミッシェル・ドブレが南仏ラングドック地方アヴェイロン県とエロー県にまたがるラルザック台地にある軍用地(陸軍演習場)を、周辺の農地を撤収して13700ヘクタールにまで拡大すると発表。それに反対する農民たちが非暴力・不服従の抵抗運動を展開。全国から10万人もの運動に応援する人たちがやってくる。そしてこの闘争からエコロジーの運動や、オクシタニア文化復興運動、ジョゼ・ボヴェの農民同盟なども生まれていく。ユートピア的で祝祭的なこの農民・市民運動は10年の長い闘争の末に、遂に軍用地拡張中止を勝ち取ってしまうんです!(1981年、ミッテランによる中止決定)
 この地の70年代は、腹の立つことも多く、ポンピドゥーは「自動車に適合した都市づくり」を敢行して、パリのセーヌ河岸にも弾丸道路を通してしまったし、国営ラジオ&テレビを統御するORTF(1954-1974)はバシバシ検閲していたし、ジスカール・デスタンはテレビをばんばん政策プロパガンダに使い、国民はダリダとクロード・フランソワさえテレビに出ていれば満足、というふうに見透かされていたのです。
 そんなフランスで1965年に創設されたピエール・バルーのサラヴァ は、売れなくてもアヴァンギャルド度を増していき、アート・アンサンブル・オブ・シカゴは1969年にパリに降り立ち、テアトル・デュ・ヴュー・コロンビエで一連のコンサートを行い、ブリジット・フォンテーヌ&アレスキーやトーゴ人の詩人/俳優のアルフレッド・パヌーなどとレコードを録音したのです。このコンピレーション・アルバムの土台はここです。フランスの若者たちが68年に古い世界から解き放たれようとしたように、ブラック・ジャズは古いジャズの決まり事をぶちこわした。フリー・ジャズはフランスで68年世代や在仏移民アーチストたちと出会って、不定型でアナーキーで祝祭的で精神的な音楽を集団創造(クレアシオン・コレクティヴ)していく。テレビではクロード・フランソワしかなかったフランスで、実は大地ではこんな抵抗と自由の音楽が奏でられていた。コルトレーン、コールマン、ドルフィー、サン・ラーのフォロワーたちが、シャンソンやアフリカ音楽や抵抗詩と一緒になって騒々しくて陶酔的な音楽になっていく。しかも集団で。
 人種差別、資本主義、国家権力、戦争、軍隊、移民政策、工場生活... この人たちは黙しているはずがない。日本だって黙していなかった人たちがたくさんいたはず。若松孝二は『天使の恍惚』(1972年)で「個的闘争」の時代に入ったことを強調したのですが、私はほとんど一人だったにも関わらずまだ集団を全面的に疑っていなかったし、集団的創造(クレアシオン・コレクティヴ)の可能性も信じていたのです。
 フランソワ・チュスク(フランスのフリー・ジャズの創始者)、MAHJUN (Mouvement Anarco Héroïque des Joyeux Utopistes Nébuleux 陽気で空疎なユートピア待望者たちによるアナーキーで英雄的な運動)、フル・ムーン・アンサンブル(アーチー・シェップ)、アヴィニョンのシェーヌ・ノワール(黒い樫)劇団、アレスキーとブリジット・フォンテーヌ、アート・アンサンブル・オブ・シカゴ... 
 サラヴァ音源のものを除くとすべて初めて聞く音楽ばかりでした。当時はと言えば、ロックやヴァリエテばかり聞いていたくせに、こんなのを聴かされると、本当のところでは、芯のところでは、こういう時代だったのだ、と、興奮したり、ほっとしたり。

<<< トラックリスト >>>
1. ALFRED PANOU & ART ENSEMBLE OF CHICAGO "JE SUIS UN SAUVAGE"(1970)
2. ARESKI & BRIGITTE FONTAINE "C'EST NORMAL" (1973)
3. ATARPOP 73 & LE COLLECTIF DU TEMPS DES CERISES "ATTENTION... L'ARMEE" (1973)
4. RK NAGATI "DE L'ORIENT A L'ORION" (197?)
5. FREDERIC RUFFIN & RAPHAEL LECOMPTE & CAPUCINE "LES ELEPHANTS" (197?)
6. FRANCOIS TUSQUES & LE COLLECTIF DU TEMPS DES CERISES "NOUS ALLONS VOUS CONTER..." (1973)
7. M A H J U N (Mouvement Anarcho Héroïque des Joyeux Utopistes Nébuleux) "NOUS OUVRIRONS LES CASERNES" (1973)
8. FULL MOON ENSEMBLE "SAMBA MIAOU" (1971)
9. BAROQUE JAZZ TRIO "ORIENTASIE" (1970)
10. MICHEL ROQUES "LE CRI" (1972)
11. CHENE NOIR "HEY ! " (1976)
12. BEATRICE ARNAC "ATHEE U A TE" (1973)

V/A "MOBILISATION GENERALE - PROTEST AND SPIRIT JAZZ FROM FRANCE 1970-1976"
BORN BAD RECORDS CD BB057CD / 2LP BB057LP
フランスでのリリース:2013年12月9日

↓"MOBILISATION GENERALE" ティーザー



2013年11月3日日曜日

Amour debout (直立の恋)


ある日悪魔がその獲物たちを監視するために地球にやってきた。悪魔はすべてを見、すべてを耳にした。すべてを知ったあと悪魔は向こう側に帰って、大晩餐会を開いた。宴の最後に悪魔は立ち上がり、こう演説した。
万事良好だ。
地球上ではそれを照らす火がまだあちこちに燃えている。
万事良好だ。
人間たちは狂ったように危険な戦争ごっこをして愉しんでいる。
万事良好だ。
理想で頭がいっぱいの男たちが線路に爆弾をしかけ、列車は大音響とともに脱線する。この死者たちはこれまでにないものだ。懺悔もなく死んでいく者たち。懺悔しても容赦なく殺される者たち。
万事良好だ。
なにもかも全く売れないが、すべては買収されている。名誉も聖性すらも。
万事良好だ。
国家はこっそりと株式会社に変身している。
万事良好だ。
大人たちは子供たちの国で作られるドル札を奪いあっている。
ヨーロッパは『守銭奴』 (モリエールの劇)の稽古をしている。1900年の舞台背景をつかって。これは多くの餓死者たちを出す。そして国家の衰退も。
万事良好だ。
人間たちはこれらのことをあまりにも多く見すぎて、目がうつろになっている。
万事良好だ。
パリの区々ではもう誰も歌を歌わなくなっている。
万事良好だ。
人々は勇者たちを狂人あつかいし、詩人たちを間抜けと罵る。しかし世界のいたるところで新聞には卑劣漢たちがデカデカと顔写真を載せている。 それは正直者たちには苦痛でも、不正直者たちをおおいに笑わせるだろう。
万事良好、万事良好、万事良好、万事良好!
    (詞曲:ジャック・ブレル「悪魔(万事良好)」)

 1954年、パリのクリシー広場にあった大きな映画館ゴーモン・パラスで、無名の駆け出し歌手、ジャック・ブレルは、二本立て映画の幕間に余興歌手として出演して3曲歌いました。誰も歌なんか聞いていません。その2階席にジュリエット・グレコがいて、その大きな手、長い腕、長い脚、長い顔の歌手の出現に、「まるで猟犬のように」(グレコ自身の表現)体が固まってしまい、じっとその歌に聞き入りました。その横にジャック・カネティ(ピアフ、トレネ、アズナヴール、グレコ、ブラッサンスなどを発掘した名プロデューサー)がいて、彼女に「ジュリエット、興味あるのかい? 彼の名前はブレル、ベルギー人だ。オーディションするよ。一緒に見よう」と言いました。
 これがジャック・ブレル(当時25歳)とジュリエット・グレコ(当時27歳)の出会いでした。ブレルは無名でしたが、グレコは既に「サン・ジェルマン・デ・プレのミューズ」であり、オランピアでショーを打ち、国際ツアーにも出ているスターでした。
 オーディションの末、グレコはすぐさまこの曲「悪魔(万事良好)」を「私がいただくわ!」と申し出ました。「当時彼にはこの曲を成功させる手だてはなかったけれど、私にはあったのよ」(2013年10月28日、ル・モンド紙掲載のヴェロニク・モルテーニュによるインタヴューでのグレコ談)。

 「でも他の曲は全部あなたが歌うのよ」と私は彼に言った。彼はこのことを一生忘れなかった。この日から彼の死の時まで、私と彼は愛し合っていた、直立の恋として。」
      (同インタビュー)

 昨日雑誌原稿を準備していて、ここまで書いて、私は筆が止まってしまいました。この "Amour debout”というグレコの表現をどう訳したものか、どう説明するべきか、と頭を抱えてしまったのです。"Amour debout"(立ったままの愛)とは、"amour couché"(横になった状態の愛)ではない、ということだと理解はできます。つまり一緒に横になったりはしない、ベッドを共にしたりしない、プラトニックな恋愛であった、ということなのでしょう。しかしこれを「プラトニック」と訳してしまうと、この "debout"の含意する潔さ、折り目正しさ、凛とした姿勢みたいなものが消えてしまうのではないか、思ったわけです。グレコは恋多き女性でした。ブレルもまた恋多き男性でした。これを「アーチストだから」という月並みな理由で説明するつもりはありません。しかしこの偉大なアーチストふたりが、出会ったとたんお互いに「この人には触れたらいけない」という別格・別次元のリスペクトと愛を直感したのではないか、というのが私の(過剰な)解釈なのでした。
 "Amour debout"、直立の恋、なんと美しい表現なのだろう、としばらく感動しておりました。

 しかし、フランス語というのはそんな感動をかき消すように...。グレコの表現とは全く関係がないと断言しておきますが、辞書やインターネットで "amour debout"という言い方を調べていきましたら、"faire l'amour debout"というのにぶつかりまして...。この表現になっちゃうとですね、立った状態で愛情交わりをすること、つまり性体位のひとつで「立位」と呼ばれるセックスをすることなんですね。こうなっちゃうと、私の心はぐじゃぐじゃになってしまうのですよ。一日を棒に振った感じ。

(↓ジュリエット・グレコ「悪魔(万事良好)」1954年)