2013年1月30日水曜日

アイ・アム・セイリグ、アイ・アム・セイリグ....

"INDIA SONG"
『インディア・ソング』

監督マルグリット・デュラス
1974年制作フランス映画
主演:デルフィーヌ・セイリグ、ミカエル・ロンスダル、マチュー・カリエール、クロード・マン
音楽:カルロス・ダレッシオ

 ずかしながら、初めて観ました。これで若い頃デュラスの読者でなかったことがバレてしまいますが、若い時に映画館で体験すべきだったと後悔しています。体力も注意力も緊張感も要りますよ。作品には失礼ですけど、一気にノンストップで最後までというのができませんでした。ホームシネマは観る者を甘やかせます。5、6回は"pause"しました。眠くもなりました。2時間映画ですが、3時間余りかけて観通しました。
 まず、ここで言う「インド 」なんですが、フランス語では複数形なんです。"Les Indes"、なぜ複数かと言うと「インド諸国」という意味なのです。インドが1国だけでなく何国もあったという意味ではありません。これは植民地時代の呼称で、南アジアと東南アジアを指して言ったものです。パキスタン、インド連邦、ネパール、ブータンなどのインド亜大陸の地域から、ビルマ、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムのインドシナ半島、フィリピン、ブルネイ、シンガポール、インドネシアなどまでに至る非常に広い地域のことです。この作品の時代は1930年代で、この広い地域はほとんど欧州列国の植民地だったのです。そしてこの映画に出てくる人物たちは、すべて広大な植民地で倦怠の時を過ごしている外交官たちなのです。
 マルグリット・デュラス(1914-1996)はその複数形の「インド」で生れ育ち(生まれたのは仏領インドシナのサイゴン)、後年の小説のインスピレーションの多くをアジアでの若き日々に因っています。最も有名なのが1984年のゴンクール賞作品『愛人(L'Amant)』ですが、その20年前、デュラスは『ラホールの副領事』(1965年)というインドのカルカッタを舞台にした小説を発表していて、その小説のヴァリエーションのような形で、戯曲、映画脚本、朗読テクストのいずれにも当てはまるような当てはまらないような作品『インディア・ソング』(1973年)を発表していて、それをデュラス自身が監督して映画化したのがこの長編劇映画『インディア・ソング』(1975年)です。
 映画はたしかにこの『ラホールの副領事』 やその前年発表の小説『ロル・V・シュタインの歓び』(1964年)を読んでいたら、了解できる部分がたくさんあるんでしょうが、知らなくたって平気。デュラスがこの作品の解説の冒頭に"C'est l'histoire d'un amour"(これはある恋の物語である)と書いてあるのですが、映画を観てこれが「恋の物語」であることに気づかない人だっているでしょう。あるいは観終わって数日、数ヶ月、数年たってから、そうか「恋の物語」だったのか、と気づく人だっているでしょう。それくらい、観る者は何にも説明されていない状態で2時間この映画につきあうわけですから。
 まず、映画は複数の語り手(それが誰なのかはよくわからない場合が多い)によって、物語や状況が説明されていくように思うのですが、その語りと映像はほとんど一致していません。また稀に登場人物のダイアローグがあるのですが、音声はあっても登場人物の口は一切動きません。シンクロしていないだけでなく、今そこで語られているのか、過去に語られたことなのか、また語られずに思考だけが対話せずに音声化されてあるのか、よくわからないのです。登場人物も情景もほとんど動きません。固定カメラがじっとその動きを待ってるわけです。その動きのなさを語りが代行していると思うのですが、語りは意地悪くも全く解説になっていないのです。少なくとも、ここに物語があるとすれば、それは映像の上ではほとんど展開されず、語りを注意深く聞いていないと、何が何やらさっぱりわからなくなります。
 映画の冒頭で語られる話は、ラオスに生まれ、17歳で父知らずの子を妊娠して生んだという理由で家を追われ、放浪のあげく、インドのカルカッタまで流れ着いた乞食女のことです。この女は気が狂っていて、いつも同じ歌を歌って物乞いをするのですが、この映画の舞台である在印フランス大使館の城館の敷地内にまで入ってきて、その歌を歌うのです。映像はその乞食女を映しません。その歌だけが窓から聞こえてくるのです。
 その大使館の城館には大使夫人アンヌ=マリー・ストレテール(演デルフィーヌ・セイリグ)がいて(語りでは既に自殺してカルカッタのイギリス人墓地に埋葬されたことになっています )、欧州から外交官などのハイソサエティーに属するボーイ・フレンドたちと情欲の日々を送っていることになっていますが、映像ではそんなシーンなど現れません。ただ(この映画で最も有名なショットでしょうが)、ボーイフレンド二人と川の寺になって着衣のまま床に仰向けに寝そべっている大使夫人のドレスから乳房が露出しているという静止映像が映し出されるということで、ああ、そうか、と思うことになるんですね。
 大使館主催の夜会(カルカッタのハイソサエティーが一同に会する大パーティーのはずですが、それは音声でのみ描写され、映像は閑散としていて、わずかに大使夫人とダンスするタキシード姿の男たちが入れ替わるのみ)で、招待されたのかされないのかわからない男が城館の庭園にいます。それがラホールにあるフランス領事館の元副領事(演ミカエル・ロンスダル)で、彼は在職中に発砲事件を起こして職を解任され、カルカッタのフランス大使(すなわちアンヌ=マリーの夫)から違う任地での職に任命されるのを待っているのです。
 ダンスの宴になって、私たちはカルロス・ダレッシオの美しいダンス音楽(ワルツ、ルンバ...)を聞くことになりますが、映像の寒々しさにも関わらず、この音楽だけで私たちは宴の陶酔を感じることができます。それほどこの音楽は重要なのです。アンヌ=マリーはそのダンスのパートナーを、ひとり、またひとりと代えていきます。彼女とパートナーの間で語られるのは「インド」のハイソサエティーの退屈と倦怠であり、この閉ざされた世界の外にはレプラの蔓延にひしがれる極端に貧しいインドがあります。彼らはそこから出ることはない。その中で、ひとりだけその外に出た男がラホールの副領事なのです。
 元副領事はずっとアンヌ=マリーのダンスするさまを凝視しています。その凝視しているさまは映像には映りません。「凝視している」と語り手によって描写されるだけです。するとダンスするアンヌ=マリーの映像を見ている私たちが、副領事の視線になってしまうのですね。私たちは副領事のようにデルフィーヌ・セイリグの美しさに抗しがたくなり、そのダンスへの誘いは私たちに向けられているように思ってしまい、ダレッシオの音楽はそれをどんどん煽っていきます。思惑通り、凝視されていることを知っているアンヌ・マリーの前に、遂に副領事が姿を現します。鏡のトリックで向き合っているのか、すれ違っているのか、背を向け合っているのか、と観る者を惑わしたあげく、二人は出会い、向かい合い、見つめ合い、口を動かすことなくVoix Off(ヴォイス・オーヴァー)で語り始めます。
 「私はインディア・ソングに惹かれてインドまでやってきた」と副領事の声は言います。「その歌は私に"envie d'aimer" (愛することへの欲望)をもたらす」とも。映画中で「インディア・ソング」という言葉が発語されるのは、この副領事の声だけです。ここがまあ、核心のような部分に見えますよ。それは映画を観たあと数日後に私も思ってしまったことですけど、この「インディア・ソング」とは何か、ということですね。音楽と言えるものがこの映画にあるとすれば、カルロス・ダレッシオの美しい旋律がまず支配的なわけですが、実はその他に映画全般を通して繰り返される乞食女=狂女の歌とも囃子詞ともつかないプリミティヴな旋律があります。ふたつのインディア・ソング。城館内のアンヌ=マリーらの属する世界のインディア・ソングと、城館外の副領事と乞食女の属する世界のインディア・ソングというわけです。
 副領事はアンヌ=マリーに"envie d'aimer"(愛することへの欲望)を抱いてしまったことも、アンヌ=マリーがこの哀れな副領事に急激に惹かれてしまったことも明白なのですが、その先はないのです。副領事はアンヌ=マリーにこう告げます「あなたと私がこれ以上先に進むことはまったく意味がない。恋物語はあなたは他の男たちとすればよい。私たちにはそんなものは必要ないのだ」。
 副領事の姿は画面から消え、しばらくして、この映画の最大の「アクション」(しかし映像画面の外の音声としてのみ介入する)シーンがやってきます。それは副領事が狂ったように叫びわめきたてるのです。夜会はこのスキャンダルで騒然となり、使用人たちが副領事を取り押さえて城館外に追い出そうとします。叫びは止みません。外に追い出されてもその叫びは延々と続くのです。乞食女の歌のように、その音を遮断することなどできず城館内に入ってくるのです。その叫び声をアンヌ=マリーは何喰わぬ顔をする努力をしながら耐え忍ばなければならない。
 「城館に残してくれ」「私はここに留まりたい」「お願いだ」、その叫びはそんなことを訴えているのですが、その中に「アンナ・マリア・グアルディ!」という名前が差し挟まれます。それは大使夫人アンヌ=マリー・ストレテール の旧名で、彼女が結婚前にヴェネツィアに住んでいた時の名前なのです。なぜそんなことを副領事が知っているのか。映画はそんなこと知ったことではありません。マルグリット・デュラスですから、という説明で済んでしまいそうなディテールです。
 延々と続く副領事/ミカエル・ロンスダルの叫び、その間に映し出されるアンヌ=マリー/デルフィーヌ・セイリグの悲しみと苦悶と諦めの入り交じった顔。これが愛のストーリーですか? このDVDを観終わった時には、やっぱりこれは一体何なのですか、と思いましたとも。 しかし、その数日後、私はデルフィーヌ・セイリグの顔を思い、これは(そのシーンは映画の中になくても)死に至る愛のストーリーであることに気づいたのです。

 城館の中には倦怠があり、老いたヨーロッパがあり、無為な愛があります。城館の外にはレプラの蔓延する貧しいインドがあり、乞食女がいて、狂った副領事の叫びがあります。この両世界での愛は狂わずには越境できないのでしょう。

 なおこの映画はカルカッタを舞台にしていますが、実際の撮影は、わが町ブーローニュ・ビヤンクールにあるエドモン・ド・ロッチルド宮殿をロケ場所にして行われています。マロニエの大木に覆われた宮殿というのが、カルカッタの在印フランス大使館になっていて奇妙な雰囲気は免れません。2013年の現在、わが家の近くにあるこの宮殿はブーローニュ市の公園の一角をなしていますが、保存の状態が悪く、廃墟のような佇まいです。ここから叫び声やインド狂女の歌が聞こえてきても不思議のないような悲しい廃れ方です。

(↓)マルグリット・デュラス映画『インディア・ソング』 断片



 
 

2013年1月21日月曜日

Woman Is the Nigger of the World (©John Lennon)

『フォックスファイア』
"Foxfire - Confessions d'un gang de filles" 
2012年フランス・カナダ合作映画
 監督:ローラン・カンテ
主演:レイヴン・アダムソン、ケティー・コセニ

フランス公開:2013年1月2日

 2008年カンヌ映画祭パルム・ドール賞『Entre les murs (壁の中で)』のローラン・カンテ監督の新作映画です。ジョイス・キャロル・オーツの小説『フォックスファイア』からの翻案映画で、既にこの小説は1996年にアメリカでアネット・ヘイウッド・カーター監督作品として映画化(主演のレッグス役にアンジェリナ・ジョリー。音楽がなんとミッシェル・コロンビエ)されているようです(フランス未公開なので未見です)。ところがですね、『壁の中で』と同じように、ローラン・カンテはプロの俳優陣を使わずに、素人の女の子たちばかりをオーディションで集めて、この映画を撮ったのです。この素顔っぽい女の子たちが、フレッシュで生々しい魅力をおおいに発散させている映画なのです。
 時は1955年、ところはアメリカのとある田舎町。 朝鮮戦争直後であり、マッカーシズム絶頂期でステーツは極端に右傾化し、「世界を癌のように蝕んでいる」社会主義・共産主義勢力との来るべき全面戦争を準備しているかのような重々しいアトモスフィアがあります。男たちは戦場から帰ってきていて、次の戦争まで我が物顔で町にのさばっているようなマッチョな空気もあります。Man's man's man's world。男たちは自分たちが世界を回しているものと思い込み、女性たちを蔑み、隷属し、家事を押しつけ、性欲の対象にするのが当たり前、という世の中でした。
 レグスことマーガレット・サドフスキー(レイヴン・アダムソン。素晴らしい)は、その世の中を憂い、忌み嫌い、目つきが鋭くなって、女たちが男性支配から解放され、あらゆる被搾取階級が資本主義社会から解放される日が来る、というヴィジョンを持っています。ごく少数派です。このごく少数派はそれを公言するとその世界では「過激派」としてパージされることになります。ですからレグスは隠れて表面に出ることのない行動を通して、このヴィジョンの実現を目指します。この目つきの鋭い女子高生は、弱い子、問題ある子、苛められる子たちに人気があり、いつしかこの少女たちはレグスを頭目にしたグループを形成し、ワルの男子グループに対抗する自警団のようになります。性的弱みにつけこまれる子、教室で教師に生徒たちの面前で激しい侮辱を受ける子、グループはそんな子たちの報復行動を隠密裏に展開します。秘密結社フォックスファイア(燐光、狐火、鬼火)団はこうして生れ、男たちへの報復攻撃の「犯行声明」のしるしに、壁に赤ペンキでめらめらと立ちのぼる火の玉(すなわち狐火)を描き残していきます。
 レグスを慕って集まってきた少女たちは、秘密結社フォックスファイア団への入団儀式(フォックスファイア団への信頼と服従、「姉妹」の契り、秘密厳守、死をかけて仲間を守ること...の宣誓と、狐火マークの入れ墨を背中に彫る)を経てメンバーになります。この儀式のシーンが映画で最も印象的な場面のひとつで、少女たちが嬉々としてこの冒険に入っていく刺激的な興奮が描かれて、夢の共同体の実現が陶酔的に信じられる、そんなマジックな瞬間が、わたくし的な昭和の日本的な例を持ち出せば、まるで修学旅行旅館の大部屋での枕投げ合戦のような無邪気な乱痴気騒ぎとして映像化されます。
 この儀式に「わたしに最初に入れ墨を彫って」と名乗り出る少女がマディー(ケティー・コセニ。素晴らしい。この演技でサン・セバスチアン映画祭女優賞)で、この不良少女集団にあって異色のインテリです。映画ではあからさまには表現されないものの、マディーは同性愛的恋慕によってレグスとくっついている少女です。
 映画の冒頭はこのマディーの数十年後のモノローグから始まります。マディーはこのフォックスファイア団のオフィシャルな記録係であり、その集団の一部始終をタイプライターで文書として記録してきました。彼女こそ、当時の新聞などで歪曲され最悪に貶められて報道された「過激派セクト」フォックスファイア の真実を唯一証言できる生き証人なのです。映画『フォックスファイア』はマディーが語るストーリーとして始まります。
 そのインテリのマディーはレグスの補佐役として、フォックスファイア団の会計も管理し、アナーキーな集団の財布を絞めるがゆえに、他の不良少女たちと軋轢が生じたりします。 最初から他の少女たちからちょっと浮いているのです。
 少女たちのマッチョな男たちへの報復攻撃は次々に成功し、フォックスファイアは町から恐れられる謎の集団に成長していきます。少女たちの反抗はロックンロール的で、世の公序良俗を笑い飛ばしながら突き進んで行きます。それが過ぎて、ある日、ワルの少年グループに取り囲まれた少女を救うために、レグスは刃物を使ってしまい、追われた少女たちは車を奪って逃走し、無免許のレグスの暴走の末、車は横転、少女たちは全員逮捕。裁判の結果、リーダーのレグスのみ5ヶ月間の鑑別所送りの刑に処されます。
 この少女鑑別所服役中に、キリスト教慰問団の訪問(服役者ひとりひとりに、神から送られた話相手パートナーをつけて、刑務者の心の悩みを軽減させよう、よい方向に改悛させよう、という慈善活動)があり、レグスにあてられたパートナーはマリアンヌ・ケログ(この映画で唯一のプロの女優、 タマラ・ホープ。素晴らしい)という町で一番の大富豪の娘です。この公序良俗とキリスト教的良心の権化のような清純無垢で心優しい娘マリアンヌは、レグスの強烈なパーソナリティーに惹かれてしまいます。レグスはウブではない。ここでレグスは心を開くふりをして、この聖少女に接近し(それが同性愛的誘惑であることが映画の後半でわかります)、来るべき大犯行の伏線を引いていきます。
 レグスの出所と共にフォックスファイア団は再結成され、集団で暮らす家を持ち、移動のための自家用車まで所有するほど組織化します。 ビールとジョイントを糧にして夢のように生きている少女たちのコミューンは、時を待たずマディーの会計報告によって資金が底をついたことを知ります。ここでフォックスファイア団のラジカルな方向転換がレグスによって発案されます。「金のあるところは知ってる。それは男たちのポケットの中よ」。少女たちのユートピアを実現するためにはその敵たる男たちから金を巻き上げればいいのです。少女たちはその武器(色気、セクシーな誘惑術)を使って、金持ちの妻帯者を誘い出し、コトに及ぼうとした時点で少女団が囲い込み、男から金を奪う(この場合、男はその妻や男の属する社会の反応を考えるから警察に訴えられない)のです。つまりフォックスファイアは盗賊団として変貌するのです。
 この資金調達作戦は首尾よく成功していきます。同時にフォックスファイア団はメンバーがどんどん増えていき、年齢も社会背景も違う女たちも加わり、困窮した女の駆け込み寺のような役割も果たすようになります。しかし、レグスの鑑別所時代の同僚だった黒人娘をレグスの推薦で団員として加えようとすると、団員たちの多数決で否決されるというエピソードもあります。人数が増えれば、意見統一も難しく、穏健派と過激派で内紛があったりもします。男たちからの現金強奪も追いつかないほど、お金はいつも足りません。この資金問題を一挙に解決する方法、それは巨万の額の金を奪うことなのです。
 鑑別所で出会い、接近したマリアンヌと再会し、大富豪家ケログの館を訪問して、ケルグ家の家族に好印象を与えて信頼させます。父親のケログ氏は、大実業家にして、政治的にはアクティヴな反共の闘士です。このケログ氏に就職の世話をしてもらうことに成功し、その記念のレストランでの夕食という機会に、フォックスファイア団はケログ氏を誘拐し、団のアジトの地下に監禁します。作戦はここまではうまく行くのですが...。

 フォックスファイア団は最初は少女たちの自警団、それから義賊的な窃盗団に変わり、最後には富豪誘拐のテロリスト団になってしまったわけです。少女たちのユートピアの変容について行けず、マディーは距離を置いていき、しまいには退団してしまいます。だから、記録者マディーは、この最後の事件の結末について知らないのです。
 レグスは監禁されたケログに家族に電話してその口から身代金を払うよう頼むことを要求しますが、ケログは頑としてそれを受け付けません。動くこともしゃべることもしません。そればかりかケログは飲むことも食べることも拒否して、そのまま死ぬ覚悟でいるのです。レグスが何度迫ってもケログの頑固さは揺るぎません。
 このケログの頑強さに、私たちは「アメリカ」を見てしまうのです。アメリカの体制、アメリカの秩序、アメリカのシステムは簡単に壊れるものではないのです。
  そして予期せぬ発砲事件が起こり、ケログは重症を負い、レグスは少女たちに離散して逃げるよう命じ、レグス自身の逃走する車は北上してそのまま蒸発してしまうのです...。

 少女たちの反抗と夢、ユートピアの出現と幻滅。この映画は政治的に読まれ・観られることはいたしかたないことです。私たちが知る60年代や70年代の政治的闘争の顛末と重なるものが多いからです。 しかしこの映画でイデオロギー的にはっきりした考えを持っているのはレグスひとりしかいないのです。レグスに導かれてとは言え、生身の女の子たちの、生身の頭と言葉と、生身の行動でもって、ユートピアを創り出していくストーリーだから、不良少女たちの生きた言葉のうちに展開する物語だから、この映画は政治的であるよりも少女ロックンロール映画のように見えるのです。この素人女優たちによる不良少女群像は、たまらなく魅力的なのです。この革命の夢は、女性解放運動よりもずっとずっとジョン・レノンやパティ・スミスの歌に近いのです。

(↓『フォックスファイア』予告編)



 

2013年1月3日木曜日

マラヴォワの40年



 2012年12月1日、パリ・ゼニットでマルチニック島のビギン楽団マラヴォワの40周年記念コンサートがありました。リードシンガーにラルフ・タマール、ピポ・ジェルトルード、トニー・シャスールという往時の看板歌手3人を立て、マリー=ジョゼ・アリー(この楽団で最も世に知られた曲"Caresse Mwen"は外せませんから)や若いロリアンヌ・ザキャリー(故エディット・ルフェルのマラヴォワ・レパートリー「ナタリー」と「ラ・シレーヌ」を歌いました)などがゲストで登場、それに加えてマラヴォワ楽団の背後には総勢40人の交響楽団がついてました。故ポロ・ロジーヌ(1945-1991)がマラヴォワをシンフォニーで、という夢を持っていたんだそうで、それが40年目に実現、という触れ込みもあったんですが、ステージではあまりシンフォニック効果がなくて残念。ヴァイオリンはこういうフォーメーションでは3本でも20本でも広がりが違うっていう風に聞こえないんですね。金管・木管の人たちもよく音聞こえなかったですし。座った位置の問題かな?下座ウィングの相当前の席(ゼニットなのになんと立ち席なしの全席指定でした)にいましたからステレオで聞こえなかったのでしょう。後日ライヴDVDが発売されますから、それでシンフォニックか否かがわかるかもしれません。それはそれ。
さて、この「40周年」という数字です。このイヴェントを記念して、1985年から今日までマラヴォワのレコード制作を担当している会社(元ブルー・シルヴァー〜前クレオン・ミュージック〜現アズテック・ミュージック) が、"MALAVOI - L'ESSENTIEL 1981-2012"と題する4CD+1DVDのボックスセットを発売しました。マラヴォワは40年前から存在しているのだけれど、現在の姿のマラヴォワの原点は1981年である、という考え方からのアンソロジー(4CD/56トラック、DVD 7クリップ+1時間ドキュメンタリー)なんですね。
 なぜ1981年かと言うと、その前の1-2年、マラヴォワはほぼ活動を休止していて、みんな個々の職業に専心していたのですよ。マラヴォワはその発足の時から専業のミュージシャンにはなるまい、楽隊屋になって狭い島のバー/キャバレーの客にお追従するような生活はしたくない、各人が職業(教師、市役所職員、銀行マン...)を持って経済的な自立の上で音楽をやろう、妥協のない音楽をやろう、という基本ラインがありました。当時はミュージシャンとして成功するには島を離れて、メトロポール(フランス本土)に出るしかなかったんですね。初代ピアニストとされるアラン・ジャン=マリー(グアドループ島出身。楽団設立者マノ・セゼールの幼友達)もジャズマンとして島に残ることができずに、結局島を離れてしまいます。ところがマラヴォワはそれをしたくない。なぜならば彼らがやりたいのは純粋に「島の音楽」だからで、島を離れればそれはできないのです。
 マノ・セゼール、クリスチアン・ド・ネグリ、ジャン=ポール・ソイムという3人のヴァイオリニストが要になって結成された(アマチュア)楽団、マラヴォワはキューバのチャランガにインスパイアされた編成(ヴァイオリン4、ピアノ、ベース・ギター、ドラムス、ヴォーカル)で、手本はオルケスタ・アラゴーンなのですが、レパートリーはシャンソン・クレオール、ビギン、マズルカが主体でした。古き良き島の音楽を、アーバンでダンサブルなカリブ・ラテンモードで、というわけです。当時の島のアーバン・ダンス音楽と言えば、圧倒的にハイチのコンパ(タブー・コンボ)やドミニカのカダンス・リプソ(エグザイル・ワン)だったんですが、それをマルチニック&グアドループ風に咀嚼して発生したフレンチ・インディーズの新しい(電気増幅=エレクトロ・アンプリファイド)音楽が、カッサヴに代表されるズークなんですね。マラヴォワはそれを電気増幅の方向を取らずに、ヴァイオリンというエレガントな弦楽器でアコースティックに表現することを選んだのです。
 マノ・セゼールは政治家にしてネグリチュードの詩人、エメ・セゼール(1913-2008) の甥にあたり、エメの思想は独立期のアフリカや第三世界に多大な影響を与えますが、マノも当時のマルチニックの多くのアーチストたちもその影響で非西欧的ルーツ回帰が創造活動の大きなテーマになります。
 60年代から70年代、マルチニックではサトウキビのプランテーションが大幅に削減され、サトウキビ農場で働いていた人々が職を失い、フランス本土からコントロールされる島の農業政策に大きな反発が起こります。その他政治経済および文化の全領域で本土の言いなりになることを拒否しする運動が発生し、しばしば街頭での示威運動が警察との衝突になります。文化ではフランスを手本にして西欧文明を盲信することを止め、島の文化的アイデンティティー(アフリカ性およびクレオール性)を再認識しよう、再生しようという運動となり、その理論的支柱となったのがエメ・セゼールだったのです。
 島の楽団はホテルやバーなどで米国や近隣のカリブ海域で流行っている音楽だけを演奏するのではなく、シューバル・ブワやビギンといった島の伝統音楽を取り上げるようになりました。
 このアイデンティティー回帰の運動は、同じ時期にメトロポールで発生したブルターニュ、オクシタニア、コルシカ、バスクなどのフォーク・ムーヴメント+マイノリティー言語擁護の運動とシンクロするのです。("L'ESSENTIEL"のDVDのドキュメンタリーで、ブルターニュのトリ・ヤンのジャン=ルイ・ジョジックがそういう証言をしています)
 そういう時代の空気の中で、マノ・セゼール、クリスチアン・ド・ネグリ、ジャン=ポール・ソイムの3人が要となってマワヴォワは結成されました。「40年前」ということになっています。その根拠はマノ・セゼールとジャン=ポール・ソイムの証言であり、彼らによるとジャン=ポール・ソイムが「マラヴォワ」(サトウキビの品種名)というバンド名を思いついたのが1972年のことだ、というのです。ソイムは故人ですから、確かめようがないのですが、マノは1972年と繰り返し証言している。 
 ところが、2006年にフレモオ&アソシエ社が復刻した"MANO ET LA FORMATION MALAVOI - PREMIERS ENREGISTREMENTS"(「マノとマラヴォワ楽団 - 初録音集」)というCDがあり、それによるとマワヴォワという名前の楽団(マノ・セゼールがリーダー)の最初の録音は、グアドループ島のレコード会社ディスク・セリニのスタジオで1969年に行われたことになっている。そしてディスク・セリニは録音された6曲を1969年内に3枚の(2曲入り)シングルレコードとして発売しているのです。
 このことを現プロデューサーのエリック・バッセ(アズテック・ミュージック代表)にインタヴューで質したのです(インタヴュー記事はラティーナ2013年2月号に掲載されます)。バッセ氏はそれはもちろんジャン=ピエール・ムーニエ(上のフレモオ盤の監修者、解説執筆者。その他フレモオ社から多数の仏海外県アンティル諸島の歴史的録音を復刻している,島の音楽のオーソリティー)の言うことが正しい、として69年説を肯定はするものの、そんなことは大事なことじゃない、創立者初代リーダーのマノ・セゼール(存命)がそう言っているんだから、そちらを立てようじゃないか、という返事でした。たぶんいいんですよ、それで。マラヴォワの40周年イヴェントはこのパリ・ゼニットの前に、マルチニックで行っていて、誰もそんなことに文句をつける人はいなかったそうですから。
 こういう細部に拘らないところ、好きですね。その細部という点で言うと、81年にラルフ・タマール(ヴォーカル)とポロ・ロジーヌ(ピアノ、リーダー)の編成で復活して、それ以来そのレコードが多くの人たちに聞かれるようになった時、そのヴァイオリン4本のアンサンブルが和音が微妙にずれる、時によっては明らかに不協和音、というのが気になった人は少なくなかったと思います。それは時代と共に目立たなくなる(録音技術の発達のせい?)ものの、出世作にして名盤と高く評価されているジョルジュ・デプス・プロダクション盤"La Filo"(1982年)にしても、私はそのルーズな和音のために、あまり多い回数聞かなかったのです。
 私たちの知っているマラヴォワは"Case à Lucie"(1986年)の成功以降ということになりますが、それは折しもの「ワールド・ミュージック」台頭時代の勢いにも乗っていました。ラジオ・ノヴァ、アクチュエル誌、リベラシオン紙などが強力にバックアップしていたフランスの「ワールド・ミュージック」(アフリカ、アンティル諸島、マグレブ、ジプシー・キングス...)は、レコード売上枚数で言えば、島の何千枚単位のセールスのアーチストだったマラヴォワを一挙に何十万単位に飛躍させ、さらに日本初め世界の国々に知られるようになったのです。
 ところがこの絶頂期の1987年に、ラルフ・タマールはマラヴォワを脱退してしまいます。「アマチュア」でいることに堪えられず、プロのアーチストとして独り立ちしたかったのです。これはず〜っと後までのマラヴォワの大きなハンディキャップとなります。ヴォーカリストが何度か変わっても、大多数のファンにとってマラヴォワの声はラルフ・タマールなんですね。(このことはバッセのインタヴューで詳しく書いてます)
 そして1993年のポロ・ロジーヌの急死。誰もがこれは楽団の致命傷と思ったものですが、マラヴォワはどっこい存続し、99年頃までそのマラヴォワらしさを保って活動してきたわけですが...。リーダーシップの欠如、内紛、マルチニック外のエレメントを導入し過ぎ...などさまざまなが露呈して楽団は空中分解します。2002年から2007年の5年間の空白期間があります。
 2007年、幾度待望されたことか、遂にラルフ・タマールがヴォーカリストとしてマラヴォワに復帰し、ヴァイオリン(4人)とチェロを総入れ替えした新生マラヴォワとして復活します。これは「マラヴォワの声の復活」イコール「マラヴォワの復活」ということを見事に証明してしまうのですね。ライヴアルバム"LA CIGALE 2007" (名義は「マラヴォワ&ラルフ・タマール」)に続いて、素晴らしいスタジオアルバム "PEP-LA" が2009年に発表され、(このCD不況時代にあっては)異例の2万枚セールスを記録します。
 というのがざっと今日までのマラヴォワの歩みですが、バッセのインタヴューによると、2013年以降はまた違うカタチのマラヴォワのプロジェクトもあり、とまだまだその神話を延長させる構えの発言があります。

(↓)2012年12月1日、パリ・ゼニットでのマラヴォワ40周年記念コンサートCM


(↓)同コンサートを報じる国営テレビFRANCE 0 のルポルタージュ