2010年1月23日土曜日

源ズ物語

 "Gainsbourg (vie héroïque)
『ゲンズブール その英雄的生涯』

2009年フランス映画
監督:ジョアン・スファール
主演:エリック・エルモスニノ、ルーシー・ゴードン、レティシア・カスタ
フランスでの封切:2010年1月20日

 との人が何をしても轟々の賛否両論を巻き起こす人物でしたから、その人物を題材にしたこの映画も同じように賛否両論を生んで当然のところはあります。話題の映画です。私は封切日の夜7時の回に見ましたが、わが町ブーローニュの映画館はほぼ満席状態でした。拍手は起こりませんでした。ため息みたいなのは方々から聞こえてきました。それは多分、「俺の知っているゲンズブールとは違う」というとまどいだったかもしれません。
 ジョアン・スファールは1971年生まれのBD作家です。すでにBD界で世界的な評価を受けている作家ですが、ゲンズブール年代的には「ジュ・テーム」よりも「メロディーネルソン」よりも後で生まれた世代です。アシュケナジの父とセファルディの母から生まれ、そのBD作品にもユダヤ文化の影響が濃いと言われています。
 この映画は"film"(映画作品)と題されていません。本来ならば"un film de Joann Sfar"(ジョアン・スファール映画作品)と称されるべきところを、左上のポスターにもあるように "un conte de Joann Sfar"としてあります。 "conte"(コント)とはスタンダード仏和辞典によると「(架空の)話、物語、コント、短編小説」という訳語があります。これはジェーン・バーキンからの申し入れで、"film"ではなく"conte"にしてもらった、ということのようです。なぜこういうことにジェーンが拘ったかというと、これはジョアン・スファールの創作であり、ジョアン・スファールの想像の産物である、ということを強調する必要があったからです。現実にもとづく伝記ではない、ということをはっきりさせる、ということです。
 伝記映画(バイオピック)として見てもらっては困る、という立場はジェーンBだけでなく、作者のスファールの側にもあります。この点で両者は合意して、晴れてジョアン・スファールの架空の想像による実名バイオファンタジーは成立したのです。これはBD作家スファールのBD的な創作力を駆使した実写BD映画とでも言えるからです。
 ジェーンBだけでなく、シャルロット・ゲンズブールにも制作前のシナリオは渡されたようですが、この母娘の了承は取ったものの、これまでの二人のこの映画制作に関するコメントは冷淡で、たぶん完成作も見ていない可能性があります。

 映画ははじめからジョアン・スファール原画のアニメーションが登場し、映画のトーンをとても軽くしてくれます。文字通り「絵空事」の物語というイメージを最初から与えてくれるからです。少年リュシアン・ギンズブルクは絵空事の少年のように登場します。それは女性への興味が旺盛で、絵が抜群にうまくて、物語作りに長けた個性的な少年です。ロシア系ユダヤ人の子は、ナチ占領下のパリで自ら率先して役所に黄色い星の胸章をもらいに行きます。映画には占領下のエキスポジション「ユダヤとフランス」のポスターを大きく映し出します。ユダヤはフランスではない、ゆえにユダヤにはフランスから出て行ってもらう、というプロパガンダです。その差別化され白眼視されたユダヤを少年は鼻高々に自演します。
 その自尊心を防衛するのが銃です。ゲンズブールの生涯にわたる銃への偏愛はこうして生まれたというのがジョアン・スファールの説明でしょう。
 話術に長け、社交的で、クラスでも人気のある少年像というのは、この映画の意外なところです。両親と姉妹とも仲の良い姿もまたしかり。孤独で、古典文学を読み漁り、変奇なオブジェを蒐集し、隠れてバロックなデッサンを描きためているような姿はこの映画には登場しません。美校(ボーザール)の裸体モデルに少年リュシアンが言い寄ります。この美しい女性はまずこの少年の流麗な話術に魅了され、そして捧げられる詩に心を奪われます。耳と鼻が異様に大きく、美少年とはほど遠い外見のリュシアンは、詩の力で愛を勝ち得る術があったというわけです。ヴェルレーヌ的です。
 その裸体モデルと会っているモンマルトルのカフェに、アルコール中毒ででっぷり肥ってしまったシャンソン・レアリストの大歌手フレエル(ヨランド・モロー、素晴らしい!)が現れ、この無冠のシャンソン女王の歌を、ソラで歌えるリュシアンにリモナードを一杯ごちそうしてやる、という場面があります。スファールの「絵空事」でしょうが、こういう感動的な「絵空事」シーンがいくつもあり、この映画はこの部分に大きく支えられて成功しているのだと私は見ました。

 アンジェロ・ドバール演じるマヌーシュ・ギタリストからギターのレッスンを受けるリュシアンが、師ドバールに一喝されて、ジャンゴ(代表曲「マイナー・スウィング」)伝来のギターによる大衆音楽の随は「マイナーにあり」と悟ります。これが彼が絵筆を捨てて、すなわち絵画や建築といったメジャー芸術を捨てて、大衆音楽という「マイナー芸術」(これは下等芸術という卑下した表現でもあるのは言うまでもありまっせん)に転身するきっかけにもなっていた、というスファールの解釈です。嘘っぽいけれど、とてもよく出来た話です。なにしろこのアンジェロ・ドバールの仙人めいた演技は出色です。映画の大きなカギです。
 そして映画の最も大きなカギはカギ鼻男の登場です。これは映画の中では"La gueule"(ラ・グール、顔、ツラ)と呼ばれ、大きな耳と大きな鼻と長い爪を持ったギニョール的なリュシアンの分身で、他の人からは見えないものの、憑き物のようにリュシアンにつきまとい、優柔不断のリュシアンに悪魔的な助言を与えて、リュシアンを「ゲンズブール」として形成していきます。絵を捨てて音楽の道に進ませたのも、ジュリエット・グレコに「ラ・ジャヴァネーズ」を捧げさせたのも、この分身の仕業です。それはジキルとハイドの人格分裂であり、後に自ら名付けたゲンズブール/ガンズバールという二重人格の体現です。

Quand Gainsbarre se bourre, Gainsbourg se barre
カン・ガンズバール・ス・ブール、ゲンズブール・ス・バール
ガンズバールが泥酔すると、ゲンズブールはずらかる

 そしてこのゲンズブール/ガンズバールが渾然として一体化(それは半分野菜で半分人間の「キャベツ頭の男」の形をしている)した時に、この「ラ・グール」も出番がなくなり、姿を消すのです。このようなゲンズブール的符号を随所に散りばめ、アニメと人形と寓話性(ジュリエット・グレコ邸で迎える猫の召使い)で、「絵空事」としてゲンズブールの生涯を描くのです。映画の前半、私はこの自由翻案によるゲンズブール伝の展開に圧倒され、興奮しました。才気ギラギラというよりは、その夢と想像力で少しずつ場所を拡大していくゲンズブール前期というのは、美しい青年像なのです。ここが「俺の知っているゲンズブールとは違う」のです。
 ボリズ・ヴィアン(フィリップ・カトリーヌ演)との出会い、本棚に折り畳まって眠っているフレール・ジャック(レ・カチュオール演、これも素晴らしい)のいびきを聞きながら、ヴィアンは"Je bois"を歌い、それに合わせてリュシアンが"Intoxicated man"でデュエットするという、絶対にあり得ないシーンながら、この映画で最も美しい場面のひとつでしょう。
 イディッシュの音楽学校に臨時教師としてかり出され、しぶしぶ始めてみると、おしまいにはギターを持って陶酔的に踊ってしまう、というリュシアンのユダヤ人の血も、こういうライト感覚で描かれたら「俺の知っているゲンズブールとは違う」となりましょう。 
 頭の悪そうなフランス・ギャル(サラ・フォレスティエ演)との出会いのシーンも悪意ある演出で、フランス・ギャル本人が見たら逆上するかもしれませんが、歌下手イエイエを極端な演技で強調して「ベビー・ポップ」が歌われて...。しかしかの『夢シャン』で、初めてゲンズブールにはまとまったお金が入ってくるのです。ヒットメイカー・ゲンズブールに曲を書いてほしいとせがむ新人女性歌手たちとの乱痴気パーティーが毎夜毎夜...。その頃ゲンズブールは芸術専攻学生向けの寮住宅「シテ・デ・ザール」(パリ3区マリー橋そば)に住んでいて、寮隣人が毎夜の騒音に耐えかね、いいかげんにしろよ、と文句を言っている時に、愛犬を連れた大映画スター、ブリジット・バルドー(レティシア・カスタ)が颯爽と早足でやってきます。この登場シーンの美しさは、スピールバーグの『未知との遭遇』のあの場面を思わせるものがあります。レティシア・カスタのバルドー演技は、この映画の中で最も語られる部分のひとつでしょうが、私の目ではコピーがオリジナルをはるかに凌駕してしまう希有な例だと思うのです。このエリック・エルモスニノとレティシア・カスタによる「コミック・ストリップ」(Shebam! Pow! Blop! Wizzz!)は映画史上に残るシーンであると、私は信じて疑いません。
 そのレティシア・バルドーとの破局のあとに現れるのが、藁編みバスケットを始終手から離さない偽ロリータ、ジェーン・バーキン(ルーシー・ゴードン演)です。この映画の唯一暗い話題として、映画撮影終了の15日後にこのルーシー・ゴードンが自殺しています。ルーシーは今頃、ダイヤモンドを持って天国にいるのでしょう。しかし、言うたらナンですが、映画はこのルーシー/バーキンの登場から失速してしまうのです。私たちが最もゲンズブールに関して親しく知っているバーキン/ゲンズブールの時代が、この映画ではとても薄っぺらいのです。
 「メロディー・ネルソン」誕生秘話もなく、キャベツ頭の男になってしまったゲンズブールは、心臓病とアルコール中毒とニコチン中毒で「ガンズバール」化します。凶暴でコントロールのきかない男である場面も(一応伝記映画ですから)出てきます。レゲエ版「ラ・マルセイエーズ」で右翼や軍部の人々と直接対抗する場面も出てきます。しかし、これらがみんな薄っぺらいのです。ジェーンとの別れ、バンブーとの邂逅、リュリュ出産などの映像は、すべて「あとのたはむれ」としか見えません。
 なぜ前半のテンションが保てないのか、ということはジョアン・スファールの最大の興味がその若き日にあった、ということなのかもしれません。確かにゲンズブール晩年は、われわれの記憶に新しいので、この映画よりも、テレビのドキュメンタリー映像の方が真実味や説得力において上なのはいたしかたありません。

 ジェーンBがこの映画を見る前から敬遠している、という理由は理解できます。ジェーンBはその時代において誰よりも良くゲンズブールを知り、理解していたはずで、このBD作家がそれを別解釈するということは我慢がならないことでしょう。
 多くのゲンズブール偏愛者たちが、この映画に頷かないことも理解できます。狂信者向きの映画ではないです。しかし、若い、ゲンズブールを同時代に知らない世代には、こういう英雄的な生涯というのは興味の第一歩として大変有効でしょう。私は偏愛者でもマニアでもないゲンズブール聞きですが、スファールの視点は「俺の知っているゲンズブールとは違う」ゆえに大変に面白いのです。とりわけジェーン/ルーシー・ゴードン登場前までは、私はこの映画を大絶賛したってかまわないのです。
 ぜひ、みんな見てください。レティシア・カスタだけでも驚嘆してください。エリック・エルモスニノはこの映画が強すぎて、二度と違う役ができなくなるかもしれません。

(↓)映画『ゲンズブール その英雄的生涯』予告編

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