2008年9月13日土曜日

私は岩、私は島



『ある島の可能性』2008年フランス映画
  "La possibilité d'une île" 監督ミッシェル・ウーエルベック
  主演:ブノワ・マジメル


 見出しの出典は「アイ・アム・ア・ロック」(サイモンとガーファンクル)です。「私は岩、私は島、岩は苦痛を感じない、島は絶対に泣かない」という歌詞で終わる歌です。2005年にミッシェル・ウーエルベックの小説『ある島の可能性』が出た時に、以前やっていたホームページでそれを紹介した時も、このサイモンとガーファンクルの歌を引き合いに出したのでした。どれだけ売れたでしょうか。賛否両論あれど、仏文学界21世紀最初の大問題作でしょう。私は絶賛しました。若い人たちの間ではカルト的に読まれたでしょう。この「カルト」というのがクセもので、予言的であることや人類の終末後(環境の大破壊によるものです)の可能性を「新宗教」で展開しているのが多くの否定的な意見を招いたのでした。この小説が、大旱魃期や氷河期や核戦争期のあとでも生きられる永遠の生命を持ったネオ人類たちが、死や情動の世界に回帰してくる、つまり不死を捨てて人間に戻るという可能性を見ようとしている、光年のかなたのロマンティスムが小説の最後の最後の救いであるわけです。こんな小説書いてしまったら、あとは何も書けなくなってしまうのではないか、と思われるほどの黙示録型の作品でした。
 ウーエルベックは、次作を書かず、この作品を映画にしてしまいました。『アキラ』を描いてしまった大友克洋のようだ、とも思いました。自分の作品を自分で映画化する場合、往々にして映画化作品は原作にあまり忠実ではありません。この映画『ある島の可能性』に至っては、小説からの翻案と言うよりも、小説のヴァリアント/ヴァリエーション、ジャズ的に言うなら主題をわかる程度に残しておいてアドリブを重視して、という感じの映像作品です。
 ウーエルベックにおいては既に『闘争領域の拡大』と『素粒子』という二つの作品を他人の映画監督によって映画化されていて、ウーエルベックはどちらにも好意的な評価はしていませんでした。自分でやるしかない、と思ったのでしょう。この『ある島の可能性』は、作者としては小説での評価と映画での評価は全く別ものであって欲しいと願ったと思います。映画監督ミッシェル・ウーエルベックはこれまで誰も知りません。こんな男に映画が撮れるのか、と思った人も少なくないでしょう。村上龍映画みたいなものでしょう。また『ある島の可能性』のようなこれまで自分が書いたものの最高のレベルに達したような作品は、たとえ映画化されても、この小説を読んだ者しか映画を見に来ないだろう、とウーエルベックは予測していたと思います。
 しかし映画化が困難と思われた小説で、ウーエルベックがこの話を持ちかけた映画会社、プロデューサーたちは、みな一様に二の足を踏み、資金の出どころがない状態になり、ウーエルベック自身が「ミッシェル・ウーエルベック株式会社」を設立して、予算の半分をこの会社で負担することにして、やっと制作が始まったのでした。
 この500ページ(小説)の黙示録的SFは、2時間くらいのフツーの映画時間では、とうていおさまるわけはない、と私は思っていました。ところが、なんと上映時間1時間25分。小説を読まなかった人たちを全く無視したような、切り捨て編集の映画です。
 ベルギーの地方都市をライトバン車で回って、異星からやってきた叡智と永遠の生命を説く新興宗教エロイム、それははじめは郊外の空き倉庫を伝導会場にして、時間の有り余っているホームレスや老人たちが数人寄ってくるような規模のものだったのに、3年後には世界に支部を持ち、先端生物学の研究者を有して、永遠の生命をクローン再生によって実現しようとする「危険カルト」に成長します。この映画では主人公ダニエル(ブノワ・マジメル)は、教団の創立時からの教祖助手ということになっています。ダニエルはある日「普通の人生」を送りたいと教祖に告げ、教団から別れシャバで暮らすようになります。数年後、ダニエルは教祖から呼び出され、その本山(超高層ホテルが林立するトロピカルなリゾート島の人里離れた岩山部の洞窟の中にあります。初期007映画の秘密基地のようです)に行くと、教祖は死につつあり、後継者はおまえだ、と告げられます。永遠の生命を約束する教団の教祖はその夜、自らを実験第一号としてクローン化の機械の中に入ります。映画はそこから数十世紀先に飛び、クローン化を数十回繰り返した後のネオ人間ダニエルが、核戦争や環境大変動を越えて、培養洞窟の中でひとりで棲息しています。ネオ・ダニエルは数十代前の人間ダニエルの書いた手書きノート(電子的に非物質化された状態で保存してあるのですが、「手書き」体の文字で残されてるというのがミソですね)の熱心な読者で、ネオ人間にはあり得ない人間状態とか愛情への強烈なノスタルジーを育んでいきます。そしてネオ・ダニエルは培養洞窟を抜け出し、破壊されつくして久しい地球表面に足を踏み出します。地球のどこかで同じように覚醒して外界に歩き出したひとりのネオ人間女がいます。この二人が果たして出会うことができるか、という可能性でこの映画はエンドマークです。
 無駄も余計なもの(例えばアリエル・ドンバルの友情出演)も陳腐なものもたくさんあるのですが、この映画、大筋のところで私は脱帽しました。小説とは別ヴァージョンであると納得できます。なぜならこの映画の後半のロマンティスムは小説にはない異種のものだからです。この出会いの可能性はキャラックス『ボーイ・ミーツ・ガール』と同じで、その男はその女と出会う前から愛してしまっている、その以前出会った記憶というのははるか何十世紀も離れたものかもしれない、という種類の果てることのない想像の恋慕のように見えます。気の遠くなるような恋物語が、ネオ人間を人間に戻す可能性になるかもしれないのですね。

 島は大陸から離れているから島なのです。

 ネオ人間ダニエルが外界に出て間もなくして、一匹のジャック・ラッセル犬と出会います。わが家のドミノ師と酷似したその犬は、ダニエルの地上彷徨の良き道連れとなり、その果てに現れた海に向かってうれしそうに吠えまくります。笑っちゃいましたけど、この感じ、とても良くわかります。

PS
 ミッシェル・ウーエルベック映画『ある島の可能性』の予告篇です。

La possibilité d'une île - Bande Annonce par lapossibiliteduneile

PS2
 この7月リリースのカルラ・ブルーニ=サルコジのアルバムに「ある島の可能性」という歌があります。これは2005年の小説『ある島の可能性』に含まれていたウーエルベックの詩に、カルラ・ブルーニが曲をつけたものですが、彼女もこの小説に衝撃を受けた人間のひとりと自認しています。そういう彼女がどうしてこういうことになるのか、ということはまた別の機会に書きましょう。

PS3
 島がほかの世界と隔絶されて進化するイメージは「ガラパゴス島」です。今日の日本の携帯電話を「ガラパゴス島」と評する人たちがいますが、故木立玲子氏は日本のシャンソンを「ガラパゴス島」と言いました。別進化をとげています。
 「私は岩、私は島」という歌のあとに「私は岩下志麻」とあの顔がにゅ〜っと出て来るヴィデオクリップ誰か作ってくれないでしょうか。

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