2008年9月8日月曜日

アンゴ便りは片便り



Christine Angot "Le marché des amants"
クリスティーヌ・アンゴ『愛人市場』


 8月末の刊行の前に,リベラシオン紙とル・モンド紙を除いて,一斉射撃を浴びるように多くのプレスから酷評されていた小説です。その攻撃は「ピポル」と「下ネタ」に集中します。ピポルとは近年フランスで特殊な使われ方をしていますが,もとの語は "people"で,フランス人発音の英語では「ピポル」に聞こえ,最近はメディアでも "pipole"と綴られ,芸能やスポーツやマスコミなどのセレブリティーを指す言葉です。ロックスターのような振舞いをする共和国大統領が誕生してから,そのピポル世界との密接な関係や,セレブ中のセレブたる元トップモデルとの結婚などが,大統領の政治と大きく関与してくることを指して「政治のピポリザシオン(pipolisation =ピポル化)」と言ったりします。
 アンゴの最新小説に登場するピポルとは,ブルーノ・ボーシール,音楽アーチストで芸名を「ドック・ジネコ」と言い,90年代にパリの北郊外サルセルで名を馳せていたハードコアラップ集団ミニステール・アメール(ストーミー・ブクシー,パッシ,ケンジー...)を経て,ソロアーチストとしてヴァージンと契約して1996年ファーストアルバム"Premiere Consultation"を大ヒットさせたことで知られている,ヒップホップ/レゲエ/ラガの自作自演歌手で,1974年生れ,グアドループ島系のムラートル(黒白混血)です。既に十代の時につけられたドック・ジネコ(産婦人科医)というニックネームは,若くして女性征服テクニシャンだったことに由来するとされています。音楽的にはミニステール・アメールやNTMなどのハードコア路線と袂を分ち,ソフトかつエロティックな独自の道(だからドクジネコ)を進んだわけですが,70万枚を売ったファーストアルバムの後,セカンド,サードと売れ方がどんどん悪くなり,10年目でヴァージンから放出されます。しかし,その女たらしのジャンキー風なキャラクターは,テレビのカナル・プリュスの看板番組「ギニョール」にも登場し,ガンジャ常習者のようなヘラヘラ笑いとゆったりとした口調で出てくる下卑たボキャブラリーで戯画化され,このギニョール・キャラの人気によって,本人もテレビのトークショーなどに「ボケ役」で出演するようになりました。ミュージシャンからタレントへ,アーチストからピポルへ,とこの男は変身したのです。
 そして2006年,大統領選挙戦が始まるやいなや,あらゆる郊外系ヒップホップ/ラップ/レゲエなどのアーチストたちに逆らって,ひとりニコラ・サルコジ支持を表明したのです。郊外派アーチストでサルコジ支持に回った者の代表がこのドック・ジネコとライのフォーデルで,この二人はサルコジ自身から大変重宝がられ,支援集会ではお立ち台が用意されるVIPとなって「郊外サルコジ派」のシンボルにさせられたのです。多くのフランス人たちは,このことに郊外の若者たちに対する背信だけでなく,売れなくなった歌手の奇を衒った宣伝売名行為ということも見抜いています。
 フランス人がこの小説を読む前に既に持ってしまっているドック・ジネコのどうしようもなくネガティブなイメージがあります。好色で,インテリジェンスに乏しく,信念がなく,裏切り者で,計算高く,ぶよぶよに肥ってしまった男なのです。これが彼が持ってしまったパブリック・イメージです。ここから既にこの小説は多くの人々に(読む前から,あるいは読むまでもなく)嫌われてしまっているわけですね。多くの書評も同じように,このどうしようもない人物像は文学になりようがない,と決めつけているのです。

 クリスティーヌ・アンゴの小説は「オート・フィクシオン(autofiction)」と呼ばれ,自己の実体験を創作として小説化したものです。それは自らの父親との関係を描いた1999年発表の『近親相姦』以来,実名でその体験が綴られるので,アンゴと関わりを持ったあらゆる人たちがその小説世界に登場することになります。私生活のあることないことが包み隠さず文章化されます。露悪趣味的です。その体験された性の描写だけでなく,実名であの人物とこの人物がこういうことをしたと書かれてしまうので,アンゴの小説が出る度にその私生活を暴露される被害者が出てきます。アンゴはそこまでのディテールを書かずにはいられない衝動とスピードで書いています。早口でヒステリックな高音を思わせる文体です。ずいぶん早くから語り口がラップ的であるという指摘をされていました。
 小説は47歳の話者「私」クリティチーヌ(小説家)が,32歳の音楽アーチスト,ドック・ジネコことブルーノ・ボーシールの出会いと,恋愛関係,そして別れを軸にした320ページです。私はこれをほとんど地下鉄通勤で読みました。ひとりの空間で読んでいるのではなく,地下鉄の車両の中にいる時,私はこれは人に見られては恥ずかしい種類の本を読んでいるのだということに気づき,2日めからカヴァーを外し,日本の本屋さんがしてくれるような包装紙カヴァーをして著者名書名を隠して読みました。他人の視線が気になる,そういう本です。いつもなら一気に読まねば気がすまないようなアンゴ小説でも,今回は10日かかってしまいました。
 それまで「私」は文筆家というステイタスを持ったパリの左岸的世界の一員でした。アートと文学と出版に関係する人間たちが馴れ合って作る世界の中で,友人関係を構成し,ハイブロウであり,気分的に左翼を支持する,そういう空気を吸っていました。そこにブルーノが闖入してきます。パリ18区,ラップ/ヒップホップ,スクーター,ケバブ・サンドウィッチ...。クリスティーヌの世界にいる人たちは,上に説明したようなドック・ジネコのネガティヴなイメージによって,一様にブルーノを白眼視します。クリスティーヌとブルーノが急激に惹かれ合って恋愛関係に至っても,その世界の人たちは「長続きするわけがない」という予想で,真に受けません。なぜなら二人は「世界が違う」からなのです。
 この二つの世界の境界を,「私」はブルーノによって越境するわけです。パリ18区と郊外の「ブラック」社会,暴力,ドラッグ,売春,音楽(ボブ・マーリー),シンプルで厚い兄弟愛のような人間関係,そういうものをクリスティーヌは新しい世界を見るように体験していくのです。たった地下鉄数駅を隔てたところに,違う世界は広がっていた,と。またブルーノにも境界線を越えてもらおうと,コメディー・フランセーズの演劇に招待したりします。こうやって書くと,なにやらおとぎ話的で,階級の違う男女が恋によってその差をどんどん取っ払っていくようなストーリー展開ですが、あちらこちらにかなり極端な性描写が出てきます(アンゴですから)。「私」は境界の向こう側に発見を繰り返し,そこに友人たちさえ作っていきます。最後にはその新しい友人たちのひとりシャルリーと新しい恋の芽生えまで用意されているのです。
 はっきり区別されているのは,長広舌を弄してくどくど説明しなければならないのが「私」の世界で,ブルーノの世界はショート・センテンスで少ない語彙でシンプルに事足りるのです。これって,すごいステロタイプ化ではないか,とあきれてしまいます。
 ブルーノがクリスティーヌの世界に入ろうとする最初の努力が,クリスティーヌの友人宅の夕食パーティーで,ブルーノはこの時「高級ラム酒」を少し飲み過ぎてしまいます。行きはスクーターで二人乗りで来たのに,帰りは不安になってクリスチーヌがタクシーに乗り,ブルーノのスクーターがその後を追うという方法を取ります。カタストロフはここでやってきます。事実かどうか怪しいものですが,この小説のヴァージョンでは,後をつけるスクーターを不審に思ったタクシー運転手が急ブレーキをかけ,追突事故を故意に誘発させます(この小説では追突の接触すら起こっていない)。コンコルド広場に近いリヴォリ通り。人だかりが出来,セレブリティー(ピポル)である二人は通行人たちのデジカメや携帯電話で写真を撮られ,警察がやってきます。ここでタクシー運転手の証言が全面的に信用され,ブルーノは被疑者として警察に一晩勾留されます。ブルーノは自分ひとりだけが勾留されたということに,二つの世界は絶対に混じり合えないのだ,と確信してしまうのです。
 小説は単純ではなく,この他にクリスティーヌの世界に属する男を恋人候補として登場させます。50歳,著名なカルチャー週刊誌の編集長,子持ち,現在交際中の恋人あり,という男マルクは,クリスティーヌに恋心を抱いたということを告白してしまいます。この男はインテリ的パリ左岸的見識と,深いところでのクリスティーヌ小説への理解によって,クリスティーヌを深々と包み込む力を持っているのですが,クリスティーヌが求めているにも関わらずそれは現実化せずに,マルクは恋人と別れることもできず,何も起こらないのです。
 向こうの世界のブルーノは帰ってくるか(帰ってこない),こちらの世界のマルクは自分を迎えられるか(迎えられない),クリスティーヌは両世界に見捨てられることになるのですが...。

 小説の題名の『愛人市場』は,アンゴの父親が語った人種差別的な発言から取っています。「愛人を売る市場では白人の方が黒人よりも価値があるのだ」と。小説が進むにつれて,こういう作者の中に根強く潜んでいる両世界論がどんどん顔を出してきて,それがマルクという「こちら側」の人間に落ち着きたいというさもしい欲求となって表出してしまいます。だから,ブルーノとは最初から長続きするわけはないのだ,という「こちら側」のロジックに最終的に飲み込まれてしまうのですね。私はここの部分で,この小説はどうしようもない,と結論したのでした。


Christine Angot "Le marché des amants"
(Seuil刊 2008年8月24日。320頁。19.90ユーロ)



PS 1
ル・モンド紙のサイトに載っている「クリスティーヌ・アンゴ『愛人市場』を読む」のヴィデオです。もうほとんどラップかスラムの乗りです。Chritine Angot lit "le marché des amants"


PS 2(9月9日)
やっぱり後味(読後感)がとても悪いのは,私も巷に流布されているドック・ジネコの人となりに大きく影響されているからで,メディア上と実像は多少の違いがあるとは言え,アンゴがこの男に惹かれ,この男を「わが子のように」愛し,この男に共感するというのが,説明のできない情動ということだけでは,あんたはしょうもないことをしたにすぎないんだ,これに320頁もつきあって,アンゴが突き抜けていくのを待っていた私はしょうもないことをしたにすぎないんだ,と納得するべきなのでしょう。
よせばいいのに,この項を書くのにドック・ジネコ関係の資料をネット上でいろいろ見てしまいました。ウィキペディアの記述によると,10月に出るドック・ジネコの新アルバム "Peace Maker"は,国民歌手ジョニー・アリデイ(サルコ支持者)とのデュエット1曲入りで,アレンジャーがモーゼイMosey(本名=ピエール・サルコジ。大統領子息)だそうです。小説の中でも出てきますが,2007年春のジュネーヴでのコンサートの時,スタンドに「サルコ・ファッショ,ジネコ・コラボ」の横断幕がかけられ,ヤジ怒号に加えて,ステージに様々なものが投げられ,ドック・ジネコはショー途中で退場しなければならなくなります。コラボはきつい言葉です。第二次大戦時のナチ協力者への蔑称です。ドック・ジネコはコラボの道を選択したのですが,これは戻り道なしです。

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