2007年9月17日月曜日

日本を喰いものにする



 アメリー・ノトンブ著『イヴでもアダムでもなく』
 Amélie Nothomb "NI D'EVE NI D'ADAM"

 毎年9月の新刊書シーズンに必ず「話題の新作」を発表して,ベストセラー1位になってしまう人です。私は読むたびに不愉快になるのにもう4册も読んでいて,マゾ的な愛読者と言えるかもしれません。そう言えば,この本でも「佐渡の人はサドである」という日本通ひけらかしの下らないダジャレが出てきて,人をなめるのもいいかげんにしろ,と言いたくなりましたがね。
 ベルギーの女流作家アメリー・ノトンブ(ラジオ番組で自分の名前をこう発音していました。酢昆布みたいだなあと思いました)は,大作家ではありまっせん。私の周りの日本人たちは一様にネガティヴな反応を示しますが,フランス人たちは好きだという人がかなりいて,こういう極端な視点の文体というのは好きになったらやめられないもののようです。今度の作品もフランス人二人(ひとりは近所の日本びいきの床屋さん,もうひとりはCD配給会社ロートル・ディストリビューションのディレクター)から「今度のノトンブはすごく良いぞ」と手放しで誉めるので,そうかなあ...と不安を持ちながら先週買ってしまいました。それで週末に読んでしまったのですが。
 小説は映画化もされた大ベストセラー『畏れ慄いて(Stupeur et tremblements)』(日本の一流商社に就職してOLとして勤まらず,上司と同僚からいじめ抜かれて便所掃除婦まで転落していくベルギー人外交官の娘のストーリー)の1年前に,21歳の主人公「私=アメリー」は5歳まで住んだ日本に再びやってきて,日本語をマスターして一流会社への就職を目指す外国人語学生をしていた,という設定になっています。言わば『畏れ慄いて』の前後に何があったか,という話です。なんとアメリーさんは日本人男性と交際していたのです。自分よりひとつ年下のフランス語を学ぶ男子学生で,宝石工芸家兼宝石デザイン学校の校長をしている富裕な親父様を持った,白いメルセデス・ベンツを乗り回すボンボンです。アメリーさんが麻布のスーパーに「フランス語個人教授いたします」の張り紙をしたら,ひっかかってきた仏文3回生です。彼が調理した広島直送の特製ソース仕上げのお好み焼きに,5歳まで夙川に住んでいた関西少女アメリーさんは,プルーストのマドレーヌのような郷愁に恍惚となります。
 この小説は喰いものの話がやたらと多いのです。スイス・フォンデュの調理道具をメルセデス・ベンツに積んで,アメリーさんのところで出張して料理する学生さん。日本人の男性は道具に凝る,という一面の真理を突いています。チーズと生クリームだらけのカルボナーラ(これも学生さんが作ります)。佐渡の旅館で出てくる懐石料理や,タコの活き鍋などの話も非日本人読者には面白いでしょう。クジラは日本人にとって美味しいんだからしかたないじゃないか,と理屈でない理屈を述べる学生さんは,西欧人から見た日本人の代表的クジラ論者のステロタイプですね。
 そして料理文化だけでなく,日本文化全般に対するアメリーさんの好奇心と蘊蓄がいろいろ展開されています。アメリーさんの白い肌を奇怪なもののように見る学生さんの祖父母。姑でもないのにアメリーさんに意地悪な意見を欠かさない学生さんの母(夏でも脚の素肌を見せずにパンストを履くのが女性のたしなみ,みたいなことを言うのです)。日本人たるもの一度は富士登山をしないと本当の日本人とは言えない,ということをアメリーさんは言うのです。彼女は日本人になりたくて富士登山をするのですね。そういう国粋主義的な魔力が富士山にあるのでしょうか。アメリーさんにまたひとつ日本を教えられました。
 学生さんが男友だち11人を呼んで,家で夕食会を開きます。学生さんが料理を作り,招待客に出すわけですが,料理ができるまでの間アメリーさんはシーンと押し黙っている男の子たちに見かねて「お話おねえさん」になってあげるのです。それがある見方では,ビールをお客に注いで回るホステス嬢と言えないことはないわけです。日本の女性がこういう場合に自然にしてしまうこと,というアメリーさんの先入観か,恋人にとって助けになることと「人に善かれ」という身に付いた社交性なのか...。それにしても日本の男の子たちは若いベルギー女性の前でシーンとしらけるような,そういう育ち方しかしていないんでしょうかねえ。またひとつアメリーさんに教えてもらいました。
 日本語の「恋」というのは "amour"ではなく,"gout"である,とアメリーさんは驚くべき定義をしました。つまり「恋」は愛を与え合ったりすることではなく,好き嫌いの「好き」にすぎないのである,と。アメリーさんは好き嫌いは簡単で軽いことだと考えます。日本語で「恋する」というのは好きになることという次元に留まるわけです。どう思われますか? 
 このまさに日本での「恋」がアメリーさんのこの小説の限界なのです。アメリーさんのおかげで学生さんはめきめきフランス語が上達するのですが,この学生さんは優しく親切で面白いユーモアを持ったお相手としてアメリーさんが好きにはなっても,限りなく軽い存在なのです。この小説で驚くのはアメリーさんと学生さんの深い会話というのがひとつもないのです。後半は学生さんが求婚をくり返すばかりなのですが,学生さんの考えというのは全く展開されないのです。この小説の内容では,いくらアメリーさんが好きとは言っても,この学生さんはどう読んでも魅力にもインテリジェンスにも乏しい男にしか感じられないのです。だからこの二人は結ばれないのだからロジックではあるのですが。
 私が読んだノトンブの小説すべてに言えるのですが,彼女のエクリチュールはこの登場人物(この場合「学生」)が個人としてのキャラクターを持つ以上に「日本」として対象化されてしまうのです。私が彼女の文章に居心地が悪くなるのは,このひとつを指して「日本」と言い切ってしまうことなのです。この小説内小説として『畏れ慄いて』で描かれた日本を代表する一流商社でアメリーさんが受けたいじめがあるのですが,会社からヘトヘトになって帰って学生さんにそのいじめの一部始終を話すと,学生さんは首を横に振り「日本国民の名において」アメリーさんに詫びの言葉を言うのです("il secouait la tete et me demandait pardon au nom de son peuple." P215)。学生さんは日本人を代表してアメリーさんに詫びを言うことなどできるわけはありまっせん。
 ノトンブは何かにつけて,それは自分と「日本」の問題だ,と事の本質をすり替えてしまうのです。自分が好意を持った男性と燃えるような恋愛にならないのは,日本語の「恋」の問題なのです。ノトンブはこういう「恋」しかできない日本男性は,ベルギー人として彼女が文化として血肉化している西欧型恋愛まで到達することはできないのだ,と前もって布石を置いてしまっているのです。これは文化の差異の問題ではないでしょう。日本人が浅薄であるということを言外に言っていることでしょう。
 この学生さんは「ツァラトゥストラ」という名前を聞くと「かく語りきの人でしょ?」と答えることができるのです。日本人は名前と題名くらいは言えるのです。そしてある日「聖堂騎士団」の本を読んで聖堂騎士団に入団したい,と言い,その後ではエジプトに関する本を読んで強烈に興味が湧いて自分はエジプト人になりたいと言い出す。ノトンブにとっては流行りものを浅く摂取するのが日本人のスペシャリティーなのでしょう。しかしこういう浅薄なパーソナリティーが魅力がないのは,日本人にとっても同じことなのだ,ということを誰もノトンブに言ってないのでしょうね。
 この小説のつまらなさは学生さんの人物像のつまらなさに尽きるのです。その人物像を作ったのは日本人や日本ではなく,アメリー・ノトンブなのです。


AMELIE NOTHOMB "NI D'EVE NI D'ADAM" (ALBIN MICHEL刊 2007年8月 250頁 17.90ユーロ)

1 件のコメント:

かっち。 さんのコメント...

以前より新刊紹介に、お世話になっています。
幾つかの恩義がありますが、アンゴーを読んだことと、ノトンブを読んでいないことは、そのなかでも最大のご恩です。

名前はノトンブですか。固有名詞を巡る戦いはまだまだ続くのですね。